明礬石鉱床の本格開発と挫折
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「伊豆珪石鉱山」の記事における「明礬石鉱床の本格開発と挫折」の解説
宇久須の北にある土肥金山は、銅製錬の溶剤としてのケイ酸鉱を産出するため金鉱山整備令の適用を免れ、戦時下でも採掘を継続していた。しかし隣の宇久須で明礬石開発が本格化する中で、1944年6月には操業停止となり、鉱山設備、人員、資材が宇久須の明礬石鉱山に振り向けられることとなった。土肥金山の他にも、本格操業に向けて全国各地の鉱山の鉱山設備から転用がなされた。鉱山の本格開発は住友鉱業が主導し、まずは住友赤平炭鉱からやって来た従業員が鉱山経営の実務を担っていたが、その後、住友鉱業本社の社員が派遣され経営を担うようになって経営体制が整えられた。 鉱山で働いていたのは、主に徴用された中国人、朝鮮人、そして勤労学徒たちであった。採掘は中国人、朝鮮人、一部の勤労学徒らが行い、勤労学徒の中にはサツマイモ栽培、事務補助等の仕事を行っていた者もいた。また朝鮮人や中国人は、鉱山に付属する設備や道路の工事にも従事した。採掘された鉱石はトロッコで運搬され、インクラインで山から降ろされてトラックに積まれ、土肥港に運ばれて船で搬出された。宇久須の鉱山関連で働いていた朝鮮人は約800人、中国人は約200人との推定がある。 鉱山の労働環境は劣悪であった。中国人の食事はコウリャン粉、トウモロコシ粉、小麦粉を水で練ってソフトボール大にしたものが一日一つであり、蛇やカエルを殺して労働者同士で分けて食べていたといい、皆、痩せてしまいよろよろと歩いている状態で、結核などの疾病、怪我、栄養失調で亡くなった者も多かった。勤労学徒に対しても衣類が十分に支給できず、食事も消化が悪く栄養不足なものが多く、多くの学生が体調を崩した。中国人や朝鮮人はしばしば脱走し、その都度大掛かりな山狩りが行われた。1944年9月には朝鮮人が争議を起こし、警察が出動して朝鮮人10名を傷害罪で検挙する事件も起きた。 前述のように宇久須で採掘された明礬石は選鉱を行う必要があった。計画では山元で一部鉱石の浮遊選鉱を行い、残りは土肥金山に送って浮遊選鉱を行い、選鉱後の鉱石は日本軽金属清水工場に送り、アルミニウムに製錬する予定であった。そこで軍需省直轄で大規模な浮遊選鉱場の工事が始められた。しかし各種鉱山設備、浮遊選鉱場は未完成のまま終戦を迎えることになり、終戦までに稼働出来たのは土肥と清水の小規模な選鉱場のみであった。鉱山本体に関しても、前述のように詳細な探鉱調査が行われた深田鉱床で露天掘りによる本格的な採掘開始準備が進められたものの、本格稼働前に終戦となった。 宇久須からの明礬石を受け入れる日本軽金属側もアルミニウム製錬が難航していた。日本軽金属では戦況悪化の中で放棄された南方でのアルミニウム製錬工場建設用の資材等を流用して、伊豆の明礬石による製錬設備を建設することにした。しかし昭和電工で採用された実績もあって製錬法の主力として期待していた明礬石苛性ソーダ法は、まず大量の苛性ソーダを使用する必要があり、仁科産の明礬石に含まれる不純物がアルミナ精製を著しく阻害し、その上、鉱石中の硫黄分が精製機器を腐食させる等の障害が起きるなど実用化が難航する中で、主に大陸方面から入手していく予定であった苛性ソーダが十分に確保できなくなり計画遂行が困難となった。明礬石マグネサイト法においても大陸方面から入手予定であったマグネサイトの手配が困難となったため、やはり計画通りには進まなかった。結局、日本軽金属清水工場での明礬石へのアルミニウム原料転換工事は、1945年5月に中断となった。 大陸からの原料入手が困難となった後、日本本土で調達できる原料でアルミニウム製錬を行うための模索が続けられた。候補となったのが石灰法と土窯法という方法であった。国内資源のみでアルミナが製造できて、しかも選鉱後の鉱石の品位が大きな問題とならないため、軍需省側からの要請もあって日本軽金属は伊豆明礬石を石灰法で処理する計画を立てることになり、パイロットプラントの建設を進めたが、完成とほぼ時を同じくして終戦となった。一方、土窯法は明礬石と炭素、石灰石を花瓶のような容器に入れ、陶磁器用の登り窯を使って混焼してアルミナを製造する方法で、浅田化学が研究していた方法であった。土窯法は軍需省東海軍需監理部長の岡田資中将が浅田化学から情報を入手し、日本軽金属側に盛んに採用を働きかけたものの、窯からの出し入れ等に多大な労力を費やすなど、工業生産として軌道に乗せるのは困難であると判断して断った。 結局終戦までに伊豆産出の明礬石から精製されたアルミナは約500トンに止った。日本軽金属の国産原料によるアルミニウム製錬は事実上失敗に終わったが、担当者は失敗の原因として、戦時中の資材不足、パイロットプラントでの試験操業の不徹底と並んで、戦局の転換に伴う鉱石の処理方法の変更が相次ぎ、方針が定まらなかったことと、現場の実情を無視した画一的な指示により混乱が生じたことを挙げている。
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