明礬の性質の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/27 01:48 UTC 版)
「アルミニウムの歴史」の記事における「明礬の性質の確立」の解説
ルネサンス初期まで、明礬の性質は不明のままだった。1530年頃、スイスの医師パラケルススは明礬をウィトリオル(英語版)(硫酸塩)と区別し 、「明礬の土の塩」であると主張した。1595年、神聖ローマ帝国の医師、化学者アンドレアス・リバヴィウスは明礬と緑ウィトリオルと青ウィトリオルが同じ酸と違う土で構成されると示し、明礬を構成した未発見の土の名前については「アルミナ」を提唱した。1702年、神聖ローマ帝国の化学者ゲオルク・エルンスト・シュタールは明礬の未発見の土が石灰か白亜と同じ種類であると述べ、以降半世紀もの間多くの科学者が同じ間違いを犯した。1722年、神聖ローマ帝国の化学者フリードリヒ・ホフマン(英語版)は明礬の土が別の種類であると信じると宣言した。1728年、フランスの化学者エティエンヌ・ジョフロワ・サンティレールは明礬が未知の土と硫酸で構成されると主張したが、その土を焼くとシリカが残ると主張するという間違いを犯した。1739年、フランスの化学者ジャン・ジェロ(Jean Gello)は明礬とアルカリが化学反応を起こして出来た土が粘土の土類と同じであると証明した。1746年、神聖ローマ帝国の化学者ヨハン・ハインリヒ・ポット(ドイツ語版)は明礬の溶液にアルカリを加えたときに生成される沈殿物が石灰とも白亜とも違うものであると示した。 1754年、神聖ローマ帝国の化学者アンドレアス・ジギスムント・マルクグラフ(英語版)は硫酸で粘土を煮て、続いてカリを加えることで明礬の土を生成した。彼は新しい土の溶液に炭酸水、カリ、またはアルカリを加えることで明礬が生成されることを発見した。彼はその土が乾いている状態では酸に溶けることを発見したため、その土は塩基性であると形容した。またその土の塩化物、硝酸塩、酢酸塩について記述した。1758年、フランスの化学者ピエール=ジョゼフ・マケ(英語版)はアルミナが金属の土のようだと記述した。1767年、スウェーデンの化学者トルビョルン・ベリマンは硫酸で明礬石を煮た後、カリを加えることで得た溶液から明礬を結晶化する方法に関する論文を出版した。また明礬の土とカリウムの硫酸塩の化学反応で明礬を生成、明礬が複塩であると証明した。1776年、神聖ローマ帝国の薬学者、化学者カール・ヴィルヘルム・シェーレは明礬とシリカの両方が粘土に由来することと、明礬にケイ素が含まれないことを証明した。前出のエティエンヌ・ジョフロワ・サンティレールの誤りは1785年、神聖ローマ帝国の薬学者、化学者ヨハン・クリスティアン・ヴィーグレップ(英語版)がシリカとアルカリから明礬の土を生成できないことを示したことで覆された。 スウェーデンの化学者イェンス・ヤコブ・ベルセリウスは1815年にアルミナの化学式をAlO3と示唆したが、正しい化学式のAl2O3は1821年にドイツの化学者アイルハルト・ミッチェルリッヒ(英語版)が確立し、後にベルセリウスがアルミニウムの原子量(27)を計算するのに役に立った。
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