明礬石鉱床の発見と開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 02:09 UTC 版)
「伊豆珪石鉱山」の記事における「明礬石鉱床の発見と開発」の解説
1934年、宇久須村内で大久須金山を経営していた佐藤謙三は金山近隣の鉱区を買収した際、鉱区内にある露頭の白い結晶状をした鉱物について疑問を抱き、秋田鉱山専門学校の加賀谷文治郎助教授にその鑑定を依頼した。加賀谷の鑑定の結果、白い結晶状の鉱物は明礬石であることが判明した。加賀谷らの調査の結果、宇久須の明礬石鉱床は大規模な鉱床であることが判明した。 佐藤は明礬石鉱床の存在が明らかになると、今後アルミニウムやカリウムの資源として活用されることを予測し、宇久須村、田方郡西豆村、土肥村の3村にまたがる広範囲の採掘権を取得した。鉱区の取得に続いて、佐藤は浅野財閥の重役であった前川益以らの紹介を受けて東京の住友本社を訪問し、鉱山開発への協力を要請した。住友側はこの最初の佐藤による要請は断ったものの、2回目は前川らが同道して住友本社を訪ね、加賀谷らの調査結果を示しながら改めて宇久須の明礬石鉱山開発への協力を要請した。住友側は佐藤らの2度目の要請を受けて調査を行うことを決定し、調査の結果、佐藤は1936年2月に住友側と鉱山開発についての契約を結んだ。 佐藤は住友からの援助を受けながら探鉱調査を進めた。また住友側も住友鉱業、住友化学の手によって、鉱石の分析、選鉱、精錬やアルミナ、アルミニウム製造研究が行われた。更に日本学術振興会の委嘱を受け、1939年末から1940年初頭にかけて岩生周一が鉱床の詳細な調査を実施した。これらの調査結果により、宇久須の明礬石鉱床の埋蔵量は約2000万トンと推定された。
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