放浪時代
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マムルーク朝成立後、シャジャル・アッ=ドゥッルに代わってスルターンとなったアイバクはバフリー・マムルークを危険視し、1254年にアクターイを殺害する。バイバルスはカラーウーンら仲間とともにエジプトから脱出し、ダマスカスのアイユーブ王族マリク・アン=ナースィルの元に亡命する。 やがてナースィルと不仲になると、バイバルスたちはカラクのアイユーブ王族ムギースの元に移った。バイバルスたちはムギースにエジプトへの進軍を依頼するが、エジプトのマムルーク朝との戦いに敗れ、ムギースからも疎まれるようになった。 シリアでの放浪時代はバイバルスにとって辛い時期であったが、「バイバルスは苦境に耐え、決して仲間を見捨てなかった」と伝記の著者アブド・アッ=ザーヒルは彼の人格を称賛している。
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放浪時代
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故郷を追放されたツヴィが最初に向かった先はテッサロニキであった。彼はこの地で大勢の弟子と信者を獲得したものの、いつもの奇行を控えることはできなかったようである。ある日のこと、彼は自分のために結婚の儀を催したのだが、その作法はハラハーに則ったものではなく、さも預言書などに書かれた救世主の到来のごとく、自らを律法(モーセ五書)の主人と見立て、律法との婚姻関係を企図したものなのであった。このパフォーマンスに関して、テッサロニキのユダヤ人社会からは激しい非難の声が上がったため、ツヴィは当地のラビの前で公式に謝罪をする羽目になった。ただし、この謝罪が彼の地位を回復させることはなく、結局はイズミールのときと同様にテッサロニキからも追放されてしまった。 それ以降の数年間、ツヴィはギリシア地方の各都市を転々としていたのだが、1658年になると信者の一団と共にコンスタンティノープルに現れた。ここでも巨大な魚を乗せた乳母車を押して町中を歩きながら市民にカバラの議論を吹きかけるなど、奇抜な行動で物議を醸すことになった。ある日のこと、たった一日でユダヤ教の三大祭(過越祭、シャブオット、仮庵祭)を開催したことがある。その日、ツヴィは仮庵の下に座りながら過越しの晩餐を催し、食後になるとティクン・レール・シャブオット(シャブオットの夜に定められた学習内容)を読み聞かせていた。もちろんこの行為は、ユダヤ教の伝統に対する挑発、冒涜に他ならなかった。この時期のツヴィには、ハラハーに対する違反を犯す自らをあべこべに祝福して喜ぶ傾向があり、そのさいはベレホト・ハ=シャホル(早朝の祝福)のごとく「戒律の解禁に祝福あれ」と叫んでいた。これも、救世主が到来する日にはハラハーによる禁止事項が無効になるというミドラシュの記述に由来している。こういった醜聞を短期間のうちに撒き散らした末、ツヴィは追われるようにコンスタンティノープルを後にして故郷のイズミールに戻った。 イズミールに戻ってからのツヴィは深刻な鬱状態に陥っていたようである。世間体を憂慮した兄弟たちは、当面の生活費を援助した上で彼をパレスティナの地へ送り出すことにした。1662年、ツヴィはロドス島とエジプトを経由してパレスティナへと向かった。エジプトでは財務大臣の要職にあったユダヤ人、ジェレビ・ラファエル・ヨセフ(「ジェレビ」はエジプト在留ユダヤ人の頭領に与えられる称号)が彼に魅了され、有力な支援者のひとりとなった。 エジプトに滞在中のこと、ツヴィの耳にリヴォルノ在住のサラという名前の風変わりな女性についての噂が届いた。それによれば、彼女は救世主の妻となるべく運命を背負わされているという啓示を受けたというのである。ツヴィはこの知らせを非常に喜び、すぐさま彼女をエジプトへと招き寄せた。両者は短時間の対面を済ませると結婚した。サラは弟子や信奉者から「王妃」と呼ばれるようになった。彼女には過去に犯した淫行をはじめとした数々の醜聞が付きまとっていたのだが、弟子や信奉者はそれを否定しないばかりか、預言者ホセアと姦淫の女の結婚になぞらえてこの出来事を解釈していた。 ツヴィはエジプトからエルサレムへ向かうと、そこで懺悔とカバラの修練に専心した。いつもの奇行が鳴りを潜めることはなかったものの、エルサレムのユダヤ人社会では信頼を得ることに成功し、ついにはエジプトへ派遣されるシャダル(エルサレムから各地のユダヤ人共同体に派遣される特使)に任命されるまで出世した。エジプトの大臣ジェレビ・ラファエル・ヨセフと親しい関係にあったことが任命を後押ししたとされている。ツヴィは1664年の末にエジプトに向けて出発した。エルサレムへの経済的支援を募るこのミッションは大変な成功を収めることになった。 一方、ツヴィがエジプトに滞在しているころ、パレスティナでは彼の人生を決定的に変えることになる出来事が起きていた。
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放浪時代(1576年–1592年)
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「ジョルダーノ・ブルーノ」の記事における「放浪時代(1576年–1592年)」の解説
1576年、異端の嫌疑をかけられたブルーノは、異端審問所の追及を逃れようとナポリを離れ、しばらくのローマ滞在を経て、北イタリア各地で文法や天文学などを教えながら放浪生活を送った。1578年にはアルプス山脈を越えてフランスに入り、翌1579年にはスイスのジュネーヴに滞在した。ジュネーヴ大学に在籍し、一時的にカルヴァン派に接近するが、改宗までしたかどうかは定かでない。また、すぐにジュネーヴ大学のカルヴァン派哲学者と論争を巻き起こし、名誉毀損で訴えられて有罪となり、ジュネーヴを離れた。同年、トゥールーズに移ったブルーノは、トゥールーズ大学の正規の講師となり、アリストテレス『魂について』の講読註解をおこなった。以後、2年近くをトゥールーズで過ごした。 1581年、パリに移住し、優れた記憶力が話題となって、フランス国王アンリ3世とも会見した。ソルボンヌ大学で正規の教授職を得ることはできなかったが、翌1582年に王立教授団(コレージュ・ド・フランスの前身)の講師に任命された。1583年、ブルーノはアンリ3世の推薦書を持ってイギリスに赴き、オックスフォード大学での教授職を得ようとしたが、同地で受け入れられず、イギリスで教壇に立つという望みは果たされなかった。だが、ロンドンに滞在する2年半のあいだに、ブルーノ前半期の主著とされる6つの対話篇『聖灰日の晩餐』『原因・原理・一者について』『無限・宇宙・諸世界について』『傲れる野獣の追放』『天馬のカバラ』『英雄的狂気』を上梓した。 1585年、パリに戻ったが、アリストテレスの自然哲学を批判した120のテーゼが問題とされた上、数学者ファブリツィオ・モルデンテとの裁判に巻き込まれ、ドイツへと去った。ドイツではマールブルク大学での教授職は得られなかったが、ヴィッテンベルク大学での教授許可を得ることができ、アリストテレスについて2年間講義した。1588年にヴィッテンベルクを去り、今度はボヘミアのプラハに現れた。そこでルドルフ2世に300テーラーという年俸を保証されたが、教授職は得られなかった。どうしても教壇に立ちたいブルーノはヘルムシュタットに移ったが、ルター派の権威者たちの反感を買い、ここも立ち去ることになった。 1591年、放浪を繰り返していたブルーノはフランクフルト・アム・マインにいた。ブルーノ後半期の主著とされる3部作『三つの最小者について』『モナド論』『測り知れざる巨大者について』はこのとき刊行された。同年、ブルーノは、ヴェネツィアの貴族ズアン・モチェニゴから記憶術の指南を受けたいという招請を受けた。モチェニゴ家はヴェネツィアでも屈指の大貴族であり、ブルーノはイタリアに戻る決意をした。ヴェネツィアに向かう途中、パドヴァに滞在し、空席となっていたパドヴァ大学の数学教授の座を得ようとするも、結局ガリレオ・ガリレイに教授職を持っていかれてしまった。ヴェネツィアに来たブルーノは、モチェニゴの家庭教師を2か月つとめた。だが、そのモチェニゴによって訴えられ、1592年、ヴェネツィア官憲によって逮捕された。さらに、ブルーノのことを聞きつけた異端審問所が介入し、最終的にローマの異端審問所に引き渡された。
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