御前会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 08:24 UTC 版)
8月9日には和平交渉の仲介役と頼りにしていたソ連が対日参戦し、その知らせを聞いた日本政府が対応を協議するため11時少し前に最高戦争指導会議を開催したが、その直後に長崎市への原子爆弾投下の報告があった。もはや事ここに至っては阿南もポツダム宣言を受諾することに反対することはなかったが、梅津参謀総長と軍令部総長豊田の3名で「国体の護持」「保障占領」「日本自身による武装解除」「日本による戦争犯罪の処分」の4条件を強く主張し、「国体の護持」のみに絞るとする東郷らと激しく対立した。阿南は特に皇室を護ることについて「ソ連は不信の国である。米国は非人道の国である。保証なく皇室を任すことは絶対に出来ない」と強く主張し、東郷からの4条件も呈示して交渉が決裂したらどうするのか?という質問に「一戦を交えるのみ」と答えている。 その一戦について、勝つ自信を米内から問われた阿南は激論を戦わせた。 阿南「戦局は5分5分、負けとは見てない」 米内「局所局所の武勇伝は別であるがブーゲンビル島の戦い、サイパンの戦い、レイテ島の戦い、ルソン島の戦い、硫黄島の戦い、沖縄戦皆然り、みな負けている」 阿南「海戦では負けているが戦争では負けていない。陸海軍で感覚が違う」 米内「勝つ見込みがあれば問題ない」 阿南「とにかく国体の護持が危険である。条件付きにて国体が護持できるのである。手足もがれては護持できない」 米内は開戦前の重臣会議で述べた「ジリ貧を恐れてドカ貧になることなかれ」という言葉の「ドカ貧」にすでに日本は陥っており、一刻も早く戦争終結をはかるべきと考えていたが、一方の阿南は海軍の艦艇がほぼ壊滅しているのに対して、陸軍は内外地に合計500万人の大兵力を有し、まだ本当の決戦を一度もしていない。本土決戦こそ、その決戦であり、国民もそのときには奮起するという陸軍側の考えを主張しており、2人の主張の隔たりは大きく、激しい議論となっていた。 会議は紛糾し、文部大臣の太田耕造が内閣総辞職すべきという意見を出した。阿南が太田に同調して辞職すれば、鈴木内閣を総辞職に追い込むこともできたが、阿南は太田に同調することはなかった。会議の途中に阿南と梅津に、陸軍中堅幕僚から突き上げを受けた河辺虎四郎参謀本部次長が面談に訪れ、全国に戒厳令を布告し、内閣を倒して軍事政権を樹立するというクーデター計画を進言したが、阿南は拒否した。また、海軍の軍令部次長の大西瀧治郎中将も阿南に面談を申し出ている。大西は海軍大臣の米内の意に反して軍令部総長豊田とともに徹底抗戦の説得活動を行っており、この面談でも「米内は和平ゆえに心許ない。陸軍大臣の奮戦を期待する」と阿南に期待するような発言があっているが、阿南は「承諾したが、海軍大臣の立場もあるので本件は聞かなかったことにしておく」と受け流している。 午後10時に7時間以上も費やして結論がでなかった閣議を鈴木は一旦散会した、そして休憩後に、もう1度最高戦争指導会議を開催して、政戦略の統一をはかることとしたが、その会議は鈴木と内閣書記官長迫水久常の手配で、昭和天皇も出席する御前会議となった。やがて宮中から御前会議開催の知らせを受けた阿南は内閣書記長室にやってきて、迫水を「御前会議を開くというが、これは違式ではないか」と問い詰めた。迫水は御前会議で天皇に発言させる予定であることを隠して「本日の会議は結論を出すという目的ではなく、実情をそのまま陛下に聞いていただくためのもの」と虚偽の回答をしたが、阿南はそれ以上は詮索することなく「そうか、それならよい」と納得して引きあげた。 午後11時50分に開始された御前会議において阿南は「本土決戦は必ずしも敗れたというわけではなく、仮に敗れて1億玉砕しても、世界の歴史に日本民族の名をとどめることができるならそれで本懐ではないか」という意見を述べ、梅津と豊田も賛同した。一方、東郷は終戦やむなきという意見を述べて、米内と平沼騏一郎枢密院議長が賛同した。一通り意見が出た後、深夜2時ごろに鈴木は自分の意見を言うことなく「意見の対立のある以上、甚だ畏れ多いことながら、私が陛下の思召しをお伺いし、聖慮をもって本会議の決定といたしたいと思います」と昭和天皇の意見を求めたため、一同にざわめきが起こった。軍関係者が驚いたのは、阿南が迫水から御前会議の開催目的について虚偽の説明を受けるなど、軍関係者にとって天皇の発言は全くの不意打ちだったからである。昭和天皇は身を乗り出すと「それならば私の意見を言おう。私は外務大臣の意見に同意である」「もちろん忠勇なる軍隊を武装解除し、また、昨日まで忠勤をはげんでくれたものを戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。しかし、今日は忍び難きを忍ばねばならぬときと思う。明治天皇の三国干渉の際のお心持ちをしのび奉り、私は涙をのんで外相案に賛成する」との“聖断”を下した。 聖断が下された御前会議が終了した後、「総理、この決定でよいのですか、約束が違うではないですか」と吉積正雄陸軍省軍務局長が鈴木に激しく詰め寄ったが、阿南はその様子を見て、何も言わずニコニコしている鈴木と吉積の間に割って入り「吉積、もうよい」と言ってたしなめている。また、陸軍出身で阿南とは同期の安井藤治国務大臣が「阿南、ずいぶん苦しかろう。陸軍大臣として君みたいに苦労する人はほかにないな」と慰めたところ、阿南は「自分はどんなことがあっても鈴木総理と最後まで事を共にするよ。どう考えても国を救うのはこの鈴木内閣だと思う」としっかりした口調で語っている。 翌8月10日、阿南は陸軍省各課の高級部員を招集して、難局に対する心構えを訓示した。「自分の微力には重々責任は感じている、だが私は主張すべきことは存分に主張した。諸君はこの阿南を信頼してくれているはずだ。このうえは一体となって、大御心のままに前進しよう」「厳格な軍規のもと、一糸乱れずに行動しよう。国家の危急に際しては、一人の無統制が国の破綻の因になる。光輝ある帝国陸軍の一員であることを忘れるな」といったような、聖断や終戦にはふれずに、陸軍の一致団結を強調した内容であった。阿南が一番恐れていたことは、陸軍の暴発であり、特に敗戦の実感がない150万人の支那派遣軍の動向であって、全陸軍をいかに聖断に従わせるか、阿南は苦心していくこととなった。阿南の真意を知らない一部の青年将校が「国体護持のため、たとえ草を食み、土をかじり、野に伏すとも断じて戦う」という「陸軍大臣布告」を勝手に作成し、阿南の決裁をとらずにマスコミに発表した。慌てた情報局総裁の下村からこの「陸軍大臣布告」を聞かされた阿南であったが、新聞への掲載中止を申し入れてきた下村に対して「いいのです。掲載してやってください。軍人とはそういうものなのです」と掲載を要請している。一途な青年将校を無理に抑え込めば暴発の懸念があると考えての、阿南に現時点でできる精一杯のことであった。 ルソン山中では阿南と同期の第14方面軍司令官山下が、優勢な連合軍相手に苦闘していたが、「楠公精神と時宗の決断とを以って敵を撃砕すべし」との激烈な「陸軍大臣布告」を受けて抗戦の意志を新たにしている。しかし、この「陸軍大臣布告」が阿南に無断で布告されたものとは知る由もなかった。
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