平城天皇
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平城天皇(へいぜいてんのう、旧字体:平󠄁城天皇、774年9月25日〈宝亀5年8月15日〉- 824年8月5日〈天長元年7月7日〉)は、日本の第51代天皇(在位:806年4月9日〈延暦25年3月17日〉- 809年5月18日〈大同4年4月1日〉)。諱は小殿(おて)、後に安殿(あて)。
注釈
- ^ 薬子の変を嵯峨天皇と重臣による権力掌握のための策謀と考える春名宏昭は桓武天皇が藤原内麻呂の妻である百済永継を寵愛して子供まで儲けた事実があるにも関わらずその事実が棚に上げられていること、そもそもこの話は薬子の変の際に仲成・薬子兄妹を糾弾した嵯峨天皇の詔に登場すること(平城上皇に兵を向けた事実を正当化するため、兄妹が国家を傾けたと主張する必要性があった)、を上げて、これを事実かどうか疑わしいとする[1]。ただし、春名も平城天皇が政略と関係なく好みの女性だけを近づけていたことは認めている[2]。
- ^ これは、早良親王廃太子と平城天皇自身の皇位継承の正当性を示す目的があったとも考えられているが、後に嵯峨天皇によって再度削除されている。
- ^ 薬子の変を嵯峨天皇と太政官による権力掌握のための行動とみる春名宏昭は、『日本後紀』大同元年7月甲辰条を根拠として桓武天皇の崩御後に都を何処に置くかは平城天皇(上皇)に委ねられており、平城京への遷都の詔はそれに基づく正当な決定で、事前に嵯峨天皇や太政官の首脳に相談しなかった落ち度を除いては何ら問題は無かったとしている[3]。一方、西本昌弘は延暦年間末期より流行し、大同2年から3年頃に大きな被害を与えた長期にわたる疫病が桓武天皇末期の徳政相論の一因であると共に平城上皇に平安京の放棄を決断させた要因であるとしている[4]。
- ^ 高岳親王が一連の事件に関与した証拠は存在せず、嵯峨天皇側も藤原仲成・薬子兄妹を首謀者として平城上皇の責任を問わなかったために、廃太子を正当化する根拠が見出せず、新しい皇太子を立てる詔だけが出され、廃太子に関する公式文書は出されなかった[5]。
- ^ 『日本後紀』弘仁2年七月乙巳条・同年9月丁未条から、薬子の変後も平城京の平城上皇の元には参議や近衛少将級以上の武官が近侍していたことが分かる。これは、平城上皇の監視の意味合いがあったと思われるが、同時に天皇と同格とされた太上天皇の身分がそのまま保持されていたためにその品位を維持する意味合いも含まれていたと推測される。ただし、『日本後紀』の両記事は平城京に駐在する官人達の怠慢を責める内容で、彼らのやる気のなさ(裏を返せば、平城上皇に不穏な動きがないこと)をうかがわせる[6]。
- ^ 後に嵯峨天皇が譲位しようとした時に、藤原冬嗣が譲位後の天皇に平城上皇と同じ待遇を与えれば、費用が嵩んで財政が危機に瀕するとして譲位に反対する意見を述べていることなどが、その裏付けとされている。
- ^ ただし、平城天皇の伝記を執筆した春名宏昭は、流用の可能性も排除しない記述をしている[7]。
出典
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