化学兵器生成に至る経緯
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1992年11月22日、麻原彰晃に「1997年から日本は崩壊する。教団を防御するため、マンジュシュリー(村井秀夫)に技術を貸してやってくれ」と言われ、村井のもとで化学研究を始めた。土谷は麻原に「サリンというものがあります。作ってみませんか」と持ちかけ、麻原から「やってみろ」と了承を得た。 第1サティアンに化学合成の実験部屋を与えられた。村井はしばしば実験部屋を訪れ、原爆やレーザー兵器製造・アンモニアなどの薬品製造プラント構想を語り、内心実現不可能な話だと感じたが、「否定的な観念を持つべきではない」と思い直す。1993年4月『毒のはなし』『薬物乱用の本』の2冊を見せられ、「(化学の)勘を取り戻すために幻覚剤PCPを合成してみたら」と指示された。村井の「1年で自衛隊程度の軍事力をオウムで持つ」との発言に唖然としていると、「潜水艦もビラ配りロボットも、もう作った」と返され、これらが実は噴飯物だったことを当時知らなかった土谷は、オウムの冊子に掲載されていたビラ配りロボットの写真を思い出し、「オウムの科学力は優れているんだ」と信じ込んだ。5月、村井の命令で渡部和実らとロシアへ行く。渡部らの成果のない仕事ぶりに呆れるが、「彼らは村井のもとで潜水艦やビラ配りロボットを完成させたのだから、これでちゃんと仕事はできているんだ」と自分を納得させた。その後も村井から原爆の製造など突飛な指示を受け驚くが、ステージの高い村井が嘘をつくことは考えられず、まずは村井曰く「簡単に作れる」というアンモニア製造プラントが実現されるかどうかを見届けることにした。 1993年6月、ついに化学兵器製造を指示される。「殺生をしてはならない」というオウムの教義を守りゴキブリも殺さない生活をしていたこと、イラン・イラク戦争で化学兵器がクルド民族に使われた残酷な場面を思い出したことで抵抗を感じたが、銃弾や砲弾を受けた死体写真を見せられ、「化学兵器はダーク、戦闘機や戦車はクリーンというイメージは、軍需産業による情報操作で、軍需産業を動かしているのはフリーメイソンだ」と諭されたり、中国人民解放軍が通常兵器しか持たないチベット軍を壊滅させたことを調べさせられ、「ハルマゲドン勃発時、教団を守るために武器を持つ。化学兵器を持つことが敵に対する抑止力になる」「オウムから仕掛けることはない。ファーストストライクはない」と説かれたりして、次第に化学兵器生成・所持へのためらいは薄れていった。波野村の教団施設の強制捜査を行った熊本県知事の細川護熙が内閣総理大臣へ登りつめたことを指摘され、「教団は国家に弾圧されている」と危機感も植え付けられた。 筑波大学の図書館で、殺傷力や製造行程を考えて大量生産に適した化学兵器としてサリン生成を決め、専門書を読みあさって実験を開始。2か月後には標準サンプル生成に成功、大量生産方法の研究を開始した。1993年10月にサリンプラントが完成し、必要な原料をダミー会社を通じて手配。サリン製造の協力者として化学知識を有する中川智正(医師)、実験助手として村井の元妻M(元神戸製鋼分析室勤務)・中川の恋人S(看護師)・男性信徒T(土谷のボディーガードをつとめた。ホーリーネームはキタカ)の4名が配属され、1993年11月から1994年1月にかけて約34kgのサリンを生成。生成中に縮瞳など複数回サリン中毒を起こし、治療にあたったSに「親子連れを見ると、この人たちも死ぬのだと思いサリン生成を葛藤したが、尊師に『ヴァジラヤーナの救済』だと言われ取り組んだ」と話している。Mによると、土谷は必要なこと以外は口をきかなかったという。土谷や中川らはサリンを「サリーチャン」、「サッチャン」と隠語で呼んでいたが、周りの信者は薄々サリンを製造しているのだと気がついていた。この頃、オウム入信前の友人と連絡した際に「薬物を扱っていて体調が悪い」、「尊師はびっくりするほど過激になった」と話している。また、何かを迷っている様子で、「尊師に言われたことは何でもやるべきか」と信者に相談していた。 正大師の村井秀夫に畏敬の念を抱く一方、村井の指示は非化学的で失敗が目に見えていたこと、失敗がわかっていても言われた通りにしなくてはいけないことからバカらしくなり、一時期やる気を失っていた。 1994年6月19日、現世(オウム以外の一般社会)で唯一心を許せた学生時代の恋人A子に電話をかけ、職場の話という形で愚痴をこぼした。20日にも電話をかけ、教団施設を離れて大酒を飲み車中で泥酔。翌朝A子宅を訪ねると、乳児をあやしているのを目撃。A子の献身の対象はかつては自分だったが、今は乳児であり「現実逃避をしてA子に会ったが、昔とはもう違う」、「現世には自分の居場所も、一時避難する場所すらもないのだ」と深く傷つき自ら上九一色村へ戻っていった。教団に戻ってしばらくすると、村井から教団内の水分析を頼まれ、分析したところサリンを検出。翌月にはイペリットを検出した。坂本堤弁護士一家失踪事件を「教団を陥れる国家権力の陰謀」と信じていたこともあり、「尊師の説法通り教団は毒ガス攻撃されている」、「自衛力を持たねば教団が潰される」と使命感に駆られて兵器生成に邁進(まいしん)した。1994年9月、友人に「人混みへ行かないでほしい」と連絡している。 1995年1月1日、 読売新聞が「上九一色村の教団施設付近からサリン残留物検出」とスクープ。村井秀夫から化学兵器類の廃棄を指示され、中川智正らとともに、クシティガルバ棟内で保管していたたサリン、VXガス、ソマンやこれらの前駆体を加水分解して廃棄した。廃棄作業中にサリン中毒にかかった。廃棄および設備の解体後、村井および中川により、VXガスとサリンの中間生成物「メチルホスホン酸ジフロライド」が発見され、これが地下鉄サリン事件で撒かれたサリンの原料となる。 ハルマゲドン予言本『日出づる国、災い近し』に「ボーディサットヴァ・クシティガルバ師長」として登場し、サリンやVXガスを解説している。また、新種の化学兵器の開発方法や効果的な使い方などについて自説を展開している。
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