前燕東晋との抗争とは? わかりやすく解説

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前燕・東晋との抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:22 UTC 版)

石虎」の記事における「前燕・東晋との抗争」の解説

同月石虎昌黎前燕主要都市攻略目論み、渡遼将軍曹伏に青州兵を与えて海を渡らせた。元々は蹋頓城に駐屯させようとしたが、引いており進めなかったので、予定変更して海島に拠点を築くと、ここに300万斛穀物運び入れたまた、300艘に30万斛穀物積み込むと、高句麗送り届けて修好深めた高句麗もまた前燕抗争していた)。また、農中郎将王典に1万余りの兵を与えて海浜において屯田させ、青州においては船千艘を造らせ、前燕攻略準備進めた同月石宣歩兵騎兵合わせて2万与え朔方鮮卑の斛摩頭を攻撃させた。石宣は斛摩頭を撃破し、4越え首級挙げた同月冀州8郡において大規模な蝗害発生した。これにより司隸は守宰(地方長官)を罰するよう請うたが、石虎は「これは政事が和を失った事によるものであり、朕の不徳の致す所である。守宰に委咎を望む(罪を帰す)のは、禹湯の罪己の義とは到底言えまい!司隸は讜言を進めず、朕を佐するに及ばず無辜な者に咎を帰して、我の責を重くようとした白衣にて司隸を領させるべきだな」と叱責した。 これより以前石虎襄城公渉帰・上庸公日帰に兵を与えて長安を守らせていた。その両者より鎮西将軍石広が私的に恩沢施して密かに不穏な動きをしている、と報告があった。石虎はこれに激怒し、石広を捕らえると鄴において処刑した。 子の石韜に金鉦・黄鉞加え、鑾輅(天子車駕)・九旒(冠)を与えた10月代王拓跋翳槐没した代国の諸大人は弟の拓跋什翼犍後継としよう考えたが、彼は当時人質として鄴に留まっていたので、代わりに次の弟の拓跋孤立てようとした。だが、拓跋孤はこれを拒絶して自ら鄴へ赴くと、石虎へ「兄(拓跋什翼犍)は国へ帰り主君とならねばなりません。代わって私が人質となりますので、どうか兄を帰国させて下さいますよう」と申し出た石虎拓跋孤気概感心し2人とも帰国させてやった。 12月段遼密雲山から使者派遣して石虎降伏願い出た石虎はこれを認め征東将軍麻秋に3の兵を与えて百里の所まで進ませて段遼迎え入れさせた。石虎出発前に麻秋へ「降伏受け入れるのは、敵と対するのと同じだ将軍よ、軽視する事の無い様に」と忠告すると共に段遼旧臣であった尚書左丞陽裕麻秋司馬とした。この時、段遼密かに前燕へも降伏使者送っており、協力して麻秋奇襲する持ち掛けていた。前燕君主慕容皝はこれに応じ、子の慕容恪精騎兵7千を与え密雲山に伏兵として潜伏させた。麻秋段遼迎え入れる為に軍を進めていたが、三蔵口において慕容恪から奇襲を受け、大敗喫して7割近くの兵を失った。さらに混乱の中で馬を失ってしまい、走って逃げ戻った陽裕将軍鮮于亮前燕軍により捕らえられた。石虎はこれを聞くと、驚き怒り余り食べていた料理吐き捨てたという。この敗戦により、麻秋官爵削られた。 339年石虎下書して、諸郡国に命じて五経博士立てさせた。石勒時代には大小の学博士設置されていたが、再び国子博士助教置いた石虎吏部選挙から耆徳徳望の高い老人)を外し権勢持った家柄児童多くを美官(高官)とした。また、郎中魏夐を免職して、庶人降した4月前燕前軍慕容評・広威将軍慕容軍折衝将軍慕輿根・盪寇将軍慕輿泥らが後趙領の遼西へと侵攻し千家余り略奪して軍を返した後趙鎮遠将軍石成・積弩将呼延晃・建威将軍張支らは追撃仕掛けたが、尽く返り討ちにされて呼延晃・張支は戦死した同月段遼前燕国内において謀叛起こそうとするも失敗し配下数十と共に殺され、その首は後趙へと送られた。 7月皇太子石宣を大単于任じ天子旌旗を建てさせた。 8月東晋荊州刺史庾亮武昌鎮守するようになると、配下毛宝・樊峻を邾城へ出鎮させて北伐拠点としたので、石虎はこれを患った。その為、夔安大都督に任じると、石鑑石閔李農張賀度菟の5将軍従えさせ、5万歩兵荊州揚州北辺に、2万騎兵で邾城に侵攻させた。後趙襲来聞いた毛宝庾亮救援要請したが、庾亮は城を固く守って動かなかった。 9月石閔は沔陰において東晋軍を破り将軍蔡懐の首級挙げた夔安李農は共に沔南を攻め落とし石宣配下将軍保は白石において東晋軍を破り鄭豹・談玄・郝荘・随相・蔡熊の5将を討ち取った張賀度は邾城を攻め落とし、さらに邾西において毛宝破り、6千人討ち取った毛宝・樊峻は包囲突破して逃走したが、長江において溺死した夔安は軍を進めて胡亭へ至ると、江夏侵攻し将軍黄沖・義陽郡太守鄭進尽く降した夔安はさらに進んで石城包囲すると、竟陵郡太守李陽防衛破って城を攻め落とし、5千人余り首級挙げたその後夔安は軍を撤退させると、漢東略奪して7千戸余り手に入れ幽州冀州移住させた。 当時貴族横暴放縦はなはだひどく、公然と賄賂横行しており、石虎はこれを患っていた。そのため、殿中御史李巨御史中丞抜擢し、この事態対処させた。これにより中外百官震え慄き、州郡もまた粛然とした。これを見た石虎は「朕が聞くところによると、良臣は猛獣如くであり、街道高歩したらば豺狼は路を避けるという。これは正しかったな!」と喜んだ石虎は撫軍将軍李農を使持節・監遼西北平諸軍事・征東将軍営州牧に任じ令支鎮守させた。李農は征北将軍張挙と共に3の兵を率いて前燕侵攻し、凡城を攻撃した前燕君主慕容皝は禦難将軍悦綰に千の兵を与えて防衛命じた悦綰士卒先頭立って矢石に身を晒しながら防戦に当たり、李農らは力を尽くして攻めた10日経て勝利出来なかった為、遂に撤退した王擢上表して「雍秦二州の望族は東より移り住み国境守っておりますが、彼らは既に衣冠冑の身分となっているので、功績免じて優遇を蒙らせるべきでしょう。そこで、皇甫・胡・・韋・・牛・辛などの十七に対して、その兵籍免除し、旧族と同様の待遇とし、才能に従って評価下すのです。また、故郷帰りたがる者へは、これを聞き入れるのです。そして、これら以外については、例外作るべきではありません」と述べた石虎遼西前燕との国境接しており、幾度も攻襲にあっていた事から、当地の民を尽く冀州南へ移した12月太保桃豹没した340年成漢皇帝李寿信書送り、共に東晋攻略し天下分ける事を提案した李寿大い喜び散騎常侍王嘏と中常侍王広を後趙派遣し石虎聘問させた。また、戦艦建造し兵備整え軍糧準備したが、群臣らはみな叩頭し出兵諌めたので、李寿思いとどまった9月尚書令夔安没した石虎前燕征伐の為、司・冀・青・徐・幽・并・雍の7州の民で、成人男子が5人いれば3人を、4人いれば2人徴兵した。これと鄴城の旧兵と合わせた50満たす1万艘の船を準備し、河から海に抜けさせて、穀豆1100万斛楽安城に運び込み、征軍の準備行ったまた、遼西北平漁陽1万余りを、兗・豫・雍・洛の4州の地に移住させた。幽州から東の白狼向かい大々的屯田行ったまた、国家領有する馬が少なかったので、私的に馬を畜する事を禁じ悉く民間の馬を掠奪し秘匿する者は腰斬処した。これにより、凡そ4余り得た。さらに宛陽において大規模な閲兵行い前燕征伐推し進めた石虎即位して以降用いるべき人材についてはみな擬官に選任し、令僕(尚書令僕射)を経てから上奏が行われていた。その人得られなかった場合責任は令僕が負うものとされ、尚書・郎には及ばなかった。ここに至り吏部尚書劉真は銓考の礼が失われていると述べたので、石虎責任者叱責すると共に、劉真に光禄大夫加えて金章紫綬下賜した。 征士辛謐に几衣服500斛の穀物下賜し、平原邸宅建築するよう命じた10月慕容皝は自ら騎兵2万率いて諸軍と共に柳城発ち後趙侵攻した。西に進んで蠮螉塞に出て道行後趙の守将をみな捕虜とし、進軍続けて城に至った後趙幽州刺史石光は数万兵を擁して籠城した。前燕軍は武遂津を渡河して高陽入った通過した所で蓄えられていた穀物焼き払い幽州冀州から3万戸余り引き連れて帰還した石虎は石光を懦弱であるとして咎め召還した

※この「前燕・東晋との抗争」の解説は、「石虎」の解説の一部です。
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