前燕・東晋との抗争
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同月、石虎は昌黎(前燕の主要都市)攻略を目論み、渡遼将軍曹伏に青州兵を与えて海を渡らせた。元々は蹋頓城に駐屯させようとしたが、水が引いており進めなかったので、予定を変更して海島に拠点を築くと、ここに300万斛の穀物を運び入れた。また、船300艘に30万斛の穀物を積み込むと、高句麗へ送り届けて修好を深めた(高句麗もまた前燕と抗争していた)。また、典農中郎将王典に1万余りの兵を与えて、海浜において屯田させ、青州においては船千艘を造らせ、前燕攻略の準備を進めた。 同月、石宣に歩兵騎兵合わせて2万を与え、朔方鮮卑の斛摩頭を攻撃させた。石宣は斛摩頭を撃破し、4万を越える首級を挙げた。 同月、冀州8郡において大規模な蝗害が発生した。これにより司隸は守宰(地方長官)を罰するよう請うたが、石虎は「これは政事が和を失った事によるものであり、朕の不徳の致す所である。守宰に委咎を望む(罪を帰す)のは、禹湯の罪己の義とは到底言えまい!司隸は讜言を進めず、朕を佐するに及ばず、無辜な者に咎を帰して、我の責を重くしようとした。白衣にて司隸を領させるべきだな」と叱責した。 これより以前、石虎は襄城公渉帰・上庸公日帰に兵を与えて長安を守らせていた。その両者より鎮西将軍石広が私的に恩沢を施して密かに不穏な動きをしている、と報告があった。石虎はこれに激怒し、石広を捕らえると鄴において処刑した。 子の石韜に金鉦・黄鉞を加え、鑾輅(天子の車駕)・九旒(冠)を与えた。 10月、代王拓跋翳槐が没した。代国の諸大人は弟の拓跋什翼犍を後継としようと考えたが、彼は当時人質として鄴に留まっていたので、代わりに次の弟の拓跋孤を立てようとした。だが、拓跋孤はこれを拒絶して自ら鄴へ赴くと、石虎へ「兄(拓跋什翼犍)は国へ帰り主君とならねばなりません。代わって私が人質となりますので、どうか兄を帰国させて下さいますよう」と申し出た。石虎は拓跋孤の気概に感心し、2人とも帰国させてやった。 12月、段遼は密雲山から使者を派遣して、石虎に降伏を願い出た。石虎はこれを認め、征東将軍麻秋に3万の兵を与えて百里の所まで進ませて段遼を迎え入れさせた。石虎は出発前に麻秋へ「降伏を受け入れるのは、敵と対するのと同じだ。将軍よ、軽視する事の無い様に」と忠告すると共に、段遼の旧臣であった尚書左丞陽裕を麻秋の司馬とした。この時、段遼は密かに前燕へも降伏の使者を送っており、協力して麻秋を奇襲する様持ち掛けていた。前燕君主慕容皝はこれに応じ、子の慕容恪に精騎兵7千を与え、密雲山に伏兵として潜伏させた。麻秋は段遼を迎え入れる為に軍を進めていたが、三蔵口において慕容恪から奇襲を受け、大敗を喫して7割近くの兵を失った。さらに混乱の中で馬を失ってしまい、走って逃げ戻った。陽裕と将軍鮮于亮は前燕軍により捕らえられた。石虎はこれを聞くと、驚きと怒りの余り食べていた料理を吐き捨てたという。この敗戦により、麻秋は官爵を削られた。 339年、石虎は下書して、諸郡国に命じて五経博士を立てさせた。石勒の時代には大小の学博士が設置されていたが、再び国子博士・助教を置いた。石虎は吏部の選挙から耆徳(徳望の高い老人)を外し、権勢を持った家柄の児童の多くを美官(高官)とした。また、郎中魏夐を免職して、庶人に降した。 4月、前燕の前軍師慕容評・広威将軍慕容軍・折衝将軍慕輿根・盪寇将軍慕輿泥らが後趙領の遼西へと侵攻し、千家余りを略奪して軍を返した。後趙の鎮遠将軍石成・積弩将軍呼延晃・建威将軍張支らは追撃を仕掛けたが、尽く返り討ちにされて呼延晃・張支は戦死した。 同月、段遼は前燕国内において謀叛を起こそうとするも失敗し、配下の数十人と共に殺され、その首は後趙へと送られた。 7月、皇太子石宣を大単于に任じ、天子の旌旗を建てさせた。 8月、東晋の荊州刺史庾亮が武昌を鎮守するようになると、配下の毛宝・樊峻を邾城へ出鎮させて北伐の拠点としたので、石虎はこれを患った。その為、夔安を大都督に任じると、石鑑・石閔・李農・張賀度・李菟の5将軍を従えさせ、5万の歩兵で荊州・揚州北辺に、2万の騎兵で邾城に侵攻させた。後趙軍襲来を聞いた毛宝は庾亮に救援を要請したが、庾亮は城を固く守って動かなかった。 9月、石閔は沔陰において東晋軍を破り、将軍蔡懐の首級を挙げた。夔安・李農は共に沔南を攻め落とし、石宣配下の将軍朱保は白石において東晋軍を破り鄭豹・談玄・郝荘・随相・蔡熊の5将を討ち取った。張賀度は邾城を攻め落とし、さらに邾西において毛宝を破り、6千人を討ち取った。毛宝・樊峻は包囲を突破して逃走したが、長江において溺死した。夔安は軍を進めて胡亭へ至ると、江夏へ侵攻し、将軍黄沖・義陽郡太守鄭進を尽く降した。夔安はさらに進んで石城を包囲すると、竟陵郡太守李陽の防衛を破って城を攻め落とし、5千人余りの首級を挙げた。その後、夔安は軍を撤退させると、漢東で略奪して7千戸余りを手に入れ、幽州・冀州へ移住させた。 当時、貴族の横暴・放縦がはなはだひどく、公然と賄賂が横行しており、石虎はこれを患っていた。そのため、殿中御史李巨を御史中丞に抜擢し、この事態に対処させた。これにより中外の百官は震え慄き、州郡もまた粛然とした。これを見た石虎は「朕が聞くところによると、良臣は猛獣の如くであり、街道を高歩したらば、豺狼は路を避けるという。これは正しかったな!」と喜んだ。 石虎は撫軍将軍李農を使持節・監遼西北平諸軍事・征東将軍・営州牧に任じ、令支を鎮守させた。李農は征北将軍張挙と共に3万の兵を率いて前燕へ侵攻し、凡城を攻撃した。前燕君主慕容皝は禦難将軍悦綰に千の兵を与えて防衛を命じた。悦綰は士卒の先頭に立って矢石に身を晒しながら防戦に当たり、李農らは力を尽くして攻めたが10日を経ても勝利出来なかった為、遂に撤退した。 王擢は上表して「雍秦二州の望族は東より移り住み、国境を守っておりますが、彼らは既に衣冠・華冑の身分となっているので、功績に免じて優遇を蒙らせるべきでしょう。そこで、皇甫・胡・梁・韋・杜・牛・辛などの十七姓に対して、その兵籍を免除し、旧族と同様の待遇とし、才能に従って評価を下すのです。また、故郷に帰りたがる者へは、これを聞き入れるのです。そして、これら以外については、例外を作るべきではありません」と述べた。 石虎は遼西が前燕との国境に接しており、幾度も攻襲にあっていた事から、当地の民を尽く冀州の南へ移した。 12月、太保桃豹が没した。 340年、成漢皇帝李寿へ信書を送り、共に東晋を攻略して天下を分ける事を提案した。李寿は大いに喜び、散騎常侍王嘏と中常侍王広を後趙へ派遣し、石虎へ聘問させた。また、戦艦を建造して兵備を整え、軍糧を準備したが、群臣らはみな叩頭して出兵を諌めたので、李寿は思いとどまった。 9月、尚書令夔安が没した。 石虎は前燕征伐の為、司・冀・青・徐・幽・并・雍の7州の民で、成人男子が5人いれば3人を、4人いれば2人を徴兵した。これと鄴城の旧兵と合わせた50万を満たす1万艘の船を準備し、河から海に抜けさせて、穀豆1100万斛を楽安城に運び込み、征軍の準備を行った。また、遼西・北平・漁陽の1万戸余りを、兗・豫・雍・洛の4州の地に移住させた。幽州から東の白狼へ向かい、大々的に屯田を行った。また、国家の領有する馬が少なかったので、私的に馬を畜する事を禁じ、悉く民間の馬を掠奪し、秘匿する者は腰斬に処した。これにより、凡そ4万匹余りを得た。さらに宛陽において大規模な閲兵を行い、前燕征伐を推し進めた。 石虎が即位して以降、用いるべき人材についてはみな擬官に選任し、令僕(尚書令・僕射)を経てから上奏が行われていた。その人が得られなかった場合、責任は令僕が負うものとされ、尚書・郎には及ばなかった。ここに至り、吏部尚書劉真は銓考の礼が失われていると述べたので、石虎は責任者を叱責すると共に、劉真に光禄大夫を加えて、金章紫綬を下賜した。 征士辛謐に几杖・衣服、500斛の穀物を下賜し、平原に邸宅を建築するよう命じた。 10月、慕容皝は自ら騎兵2万を率いて諸軍と共に柳城を発ち、後趙へ侵攻した。西に進んで蠮螉塞に出て、道行く後趙の守将をみな捕虜とし、進軍を続けて薊城に至った。後趙の幽州刺史石光は数万兵を擁して籠城した。前燕軍は武遂津を渡河して高陽に入った。通過した所で蓄えられていた穀物を焼き払い、幽州・冀州から3万戸余りを引き連れて帰還した。石虎は石光を懦弱であるとして咎め、召還した。
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