出生から後継者
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天正7年4月7日(1579年5月2日)、徳川家康の三男として遠江国浜松に誕生する。母は側室の西郷局。母の実家・三河西郷氏は土岐氏一族で、室町初期には三河守護代を務めたこともある名家であり、当時も三河国の有力な国人であった。乳母・大姥局によって養育される。同母弟に関ヶ原の戦いで活躍した松平忠吉がいる。 秀忠が誕生してから5か月後に長兄・信康が切腹している。次兄である秀康は豊臣秀吉に養子(事実上の人質)として出され、のちに結城氏を継いだため、母親が三河国の名家出身である秀忠が実質的な世子として処遇されることになった。 長丸(秀忠)の存在が注目されたのは、家康と秀吉の講和条件として秀吉の妹である朝日姫(旭姫)を家康に嫁がせることになった時である。同時代の史料では確認できないものの、『三河後風土記』や『武徳編年集成』にはこの時家康が「朝日姫が家康の子を産んでも嫡子とはしないこと」「長丸を秀吉の人質としないこと」「万一、家康が死去しても秀吉は徳川領5か国を長丸に安堵して家督を継がせること」を条件にしたと伝えられている。 天正18年(1590年)1月7日、小田原征伐に際して実質的な人質として上洛した。これは秀吉が諸大名の妻子を人質に取るように命じた天正17年9月のいわゆる「妻子人質令」を受けての措置であるが、秀吉は長丸の上洛を猶予しているのに対して家康から長丸を上洛させる希望を述べており、更に上洛後も秀吉に拝謁し、織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫(春昌院)と祝言を挙げた直後の同月25日には秀吉の許しを得て帰国しており、他大名の妻子とは別格の待遇を受けている。 この上洛中の1月15日に秀吉に拝謁した長丸は元服して秀吉の偏諱を受けて秀忠と名乗ったとされ(『徳川実紀』)、秀吉から、豊臣姓を与えられる。ただし、同年12月に秀忠が再度上洛した時の勧修寺晴豊の日記『晴豊記』天正18年12月29日条には秀忠を「於長」と称しており、秀忠の元服と一字拝領は同日以降であった可能性もある。なお、翌天正19年(1591年)6月に秀吉から家康に充てられた書状では秀忠を「侍従」と称しており、この時には元服を終えていたと考えられる。 また、秀吉の養女・小姫(春昌院)との婚姻については、小姫の実父である信雄と秀吉が仲違いして信雄が除封されたことにより離縁となり、翌天正19年(1591年)に7歳で病死したとされる。ただし、当時は縁組の取決めをすることを「祝言」と称し、後日正式に輿入れして婚姻が成立する事例もあることから、婚約成立後に信雄の改易もしくは小姫の早世によって婚姻が成立しなかった可能性も指摘されている。 文禄の役では榊原康政・井伊直政の後見を受けつつ、名護屋へ出陣した家康の替わりに関東領国の統治を行う。文禄元年に秀吉の母大政所が死去した際には弔問のため上洛し、9月には中納言に任官して「江戸中納言」と呼ばれる。また同年には多賀谷重経の出陣拒否を理由に、秀吉は居城の下妻城破却を秀忠に命じている。文禄2年12月には大久保忠隣が秀忠付になる。 文禄4年(1595年)7月に秀次事件が起きた際、京に滞在していた秀忠は伏見に一時移動している。このことについて、後世の『創業記考異』等には、秀次が秀忠を人質にしようとしたため忠隣が避難させたとある。秀次の切腹によりお拾が秀吉の後継者に定まると、9月17日にお拾の生母の淀殿の妹である於江与が秀吉の養女として秀忠と再婚する。また秀吉から、羽柴の名字を与えられる。 その後も畿内に留まることの多い家康に代わり関東領国の支配を行い、江戸城本丸は「本城」として秀忠が住む一方で、新たに整備された西之丸は隠居曲輪として家康が帰国した際の所在地となった。また秀忠自身も度々上洛している。 慶長3年(1598年)に記された秀吉の遺言状では、家康が年をとって患いがちになった場合には秀忠が代わりに秀頼の面倒をみること、また家康は三年間は在京し、その間に領地に用がある場合は秀忠を下向させるべきと定めている。遺言の通り、秀吉死去直後に秀忠が家康の命で帰国している。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、当初は上杉の備えとして宇都宮に在陣し、その後に中山道を通り甲信地方の真田氏を平定する別働隊の指揮を命じられた。信濃国上田城攻め最中の9月8日に家康から即時上洛を命じられ行軍を急いだが、9月15日(新暦10月21日)の関ヶ原本戦には間に合うはずもなかった。 9月20日に大津に到着した秀忠に対して家康は、急な行軍で軍を疲弊させたことを叱責した(遅参が理由では無い点に注意)。 関ヶ原の戦いのあと家康は三人の息子のうち誰を後継者にすべきかを家臣を集めて尋ねた。本多正信は結城秀康を推し、井伊直政と本多忠勝は松平忠吉を推し、大久保忠隣のみが「乱世においては武勇が肝要ではありますが天下を治めるには文徳も必要です。知勇と文徳を持ち謙譲な人柄の秀忠様しかおりませぬ」とただ一人秀忠を推した。後日家康は同じ家臣を集め後継者は秀忠とすると告げたとする逸話がある。ただし上記の様にこれ以前に秀忠の後継者としての地位は既に固まっており、この逸話の信憑性は低い。 慶長6年3月に秀忠は大納言に任じられ翌月に関東へ帰国する。翌7年1月には家康より関東領国の内20万石を与えられ、秀忠は自身の直臣に知行を与えている。6月には佐竹の旧領収公を付属の正信・忠隣が行った。 慶長8年(1603年)2月12日に征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、嫡男・秀忠を右近衛大将にするよう朝廷に奏上し、慶長8年(1603年)4月16日に任命された(すでに大納言であり、父・家康が左近衛大将への任官歴があったので、すぐに認められた)。それまでの武家の近衛大将任官例は武家棟梁にほぼ限られ、征夷大将軍による兼任が例とされていた。これにより、徳川家の将軍職世襲がほぼ内定し、また秀忠の徳川宗家相続が揺るぎないものとなった。この時期の秀忠は江戸右大将と呼ばれ、以後代々の徳川将軍家において右大将といえば、将軍家世嗣をさすこととなる。 関ヶ原の戦いの論功行賞の名の下に、豊臣恩顧の大名を西国に移した徳川家は、東海・関東・南東北を完全に押さえ、名実ともに関東の政権を打ち立てた。2年後の慶長10年(1605年)、家康は将軍職を秀忠に譲り、秀忠が第2代征夷大将軍となることとなる。
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