出生から後継者とは? わかりやすく解説

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出生から後継者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 16:09 UTC 版)

徳川秀忠」の記事における「出生から後継者」の解説

天正7年4月7日1579年5月2日)、徳川家康三男として遠江国浜松誕生する。母は側室西郷局。母の実家三河西郷氏土岐氏一族で、室町初期には三河守護代を務めたこともある名家であり、当時三河国有力な国人であった乳母大姥局によって養育される。同母弟に関ヶ原の戦い活躍した松平忠吉がいる。 秀忠誕生してから5か月後に長兄信康切腹している。次兄である秀康は豊臣秀吉養子事実上人質)として出され、のちに結城氏継いだため、母親三河国名家出身である秀忠実質的な世子として処遇されることになった長丸秀忠)の存在注目されたのは、家康秀吉講和条件として秀吉の妹である朝日姫(旭姫)を家康嫁がせることになった時である。同時代の史料では確認できないものの、『三河後風土記』や『武徳編年集成』にはこの時家康が「朝日姫家康の子産んで嫡子はしないこと」「長丸秀吉人質としないこと」「万一家康死去して秀吉徳川領5か国を長丸安堵して家督継がせること」を条件にしたと伝えられている。 天正18年1590年1月7日小田原征伐に際して実質的な人質として上洛した。これは秀吉諸大名妻子人質に取るように命じた天正17年9月いわゆる妻子人質令」を受けて措置であるが、秀吉長丸の上洛を猶予しているのに対して家康から長丸上洛させる希望述べており、更に上洛後秀吉拝謁し織田信雄の娘で秀吉養女小姫(春昌院)と祝言挙げた直後同月25日には秀吉許し得て帰国しており、他大名妻子とは別格待遇受けている。 この上洛中1月15日秀吉拝謁した長丸元服して秀吉偏諱受けて秀忠名乗ったとされ(『徳川実紀』)、秀吉から、豊臣姓を与えられる。ただし、同年12月秀忠再度上洛した時の勧修寺晴豊日記『晴豊記』天正18年12月29日条には秀忠を「於長」と称しており、秀忠元服一字拝領同日以降であった可能性もある。なお、翌天正19年1591年6月秀吉から家康充てられた書状では秀忠を「侍従」と称しており、この時には元服終えていたと考えられるまた、秀吉養女小姫(春昌院)との婚姻については、小姫実父である信雄と秀吉仲違いして信雄が除封されたことにより離縁となり、翌天正19年1591年)に7歳病死しとされる。ただし、当時縁組取決めをすることを「祝言」と称し後日正式に輿入れし婚姻成立する事例もあることから、婚約成立後に信雄の改易もしくは小姫早世によって婚姻成立しなかった可能性指摘されている。 文禄の役では榊原康政井伊直政後見を受けつつ、名護屋出陣した家康替わり関東領国統治を行う。文禄元年秀吉の母大政所死去した際には弔問のため上洛し、9月には中納言任官して「江戸中納言」と呼ばれる。また同年には多賀谷重経出陣拒否理由に、秀吉居城下妻城破却秀忠命じている。文禄2年12月には大久保忠隣秀忠付になる。 文禄4年1595年7月秀次事件起きた際、京に滞在していた秀忠伏見一時移動している。このことについて、後世の『創業記考異』等には、秀次が秀忠人質にしようとしたため忠隣が避難させたとある。秀次の切腹によりお拾が秀吉後継者定まると、9月17日にお拾の生母淀殿の妹である於江与秀吉養女として秀忠再婚する。また秀吉から、羽柴名字与えられるその後畿内留まることの多い家康代わり関東領国支配行い江戸城本丸は「本城」として秀忠が住む一方で新たに整備され西之丸は隠居曲輪として家康帰国した際の所在地となった。また秀忠自身も度々上洛している。 慶長3年1598年)に記され秀吉遺言状では、家康が年をとって患いがちになった場合には秀忠代わりに秀頼の面倒をみること、また家康三年間は在京しその間領地に用がある場合秀忠下向させるべきと定めている。遺言通り秀吉死去直後秀忠家康の命で帰国している。 慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して当初上杉備えとして宇都宮に在陣しその後中山道通り甲信地方真田氏平定する別働隊の指揮命じられた。信濃国上田城攻め最中9月8日家康から即時上洛命じられ行軍急いだが、9月15日新暦10月21日)の関ヶ原本戦には間に合うはずもなかった。 9月20日大津到着した秀忠に対して家康は、急な行軍で軍を疲弊させたことを叱責した(遅参理由では無い点に注意)。 関ヶ原の戦いのあと家康三人の息子のうち誰を後継者にすべきかを家臣集めて尋ねた本多正信結城秀康推し井伊直政本多忠勝松平忠吉推し大久保忠隣のみが「乱世においては武勇肝要ではあります天下治めるには文徳も必要です。知勇文徳持ち謙譲人柄秀忠様しかおりませぬ」とただ一人秀忠推した後日家康は同じ家臣集め後継者秀忠とすると告げたとする逸話がある。ただし上記様にこれ以前秀忠後継者としての地位は既に固まっており、この逸話信憑性は低い。 慶長6年3月秀忠大納言任じられ翌月関東帰国する。翌7年1月には家康より関東領国の内20万石与えられ秀忠自身直臣知行与えている。6月には佐竹旧領収公付属正信・忠隣が行った。 慶長8年1603年2月12日征夷大将軍に就いて幕府開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲確実にするため、嫡男秀忠右近衛大将にするよう朝廷奏上し慶長8年1603年4月16日任命された(すでに大納言であり、父・家康左近衛大将への任官歴があったので、すぐに認められた)。それまで武家近衛大将任官例は武家棟梁にほぼ限られ征夷大将軍による兼任が例とされていた。これにより、徳川家将軍職世襲がほぼ内定し、また秀忠徳川宗家相続揺るぎないものとなった。この時期秀忠江戸右大将呼ばれ以後代々徳川将軍家において右大将といえば将軍家世嗣をさすこととなる。 関ヶ原の戦い論功行賞の名の下に、豊臣恩顧大名西国移した徳川家は、東海関東南東北を完全に押さえ名実ともに関東政権打ち立てた2年後慶長10年1605年)、家康将軍職秀忠譲り秀忠第2代征夷大将軍となることとなる。

※この「出生から後継者」の解説は、「徳川秀忠」の解説の一部です。
「出生から後継者」を含む「徳川秀忠」の記事については、「徳川秀忠」の概要を参照ください。

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