八連覇の時代
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1958-59シーズン ファイナルという最も大事な場面でチームを援護できなかったラッセルは、新シーズンで名誉を取り戻すために復活。自身は16.7得点23.0リバウンドを記録し、チームも当時のNBA歴代最高勝利数となる52勝20敗をあげた。ラッセルは2年連続のMVPこそならなかったが、オールNBAチームではめでたく初の1stチーム入りを果たしている。 プレーオフではデビジョン決勝でシラキュース・ナショナルズに思わぬ苦戦を強いられたが、4勝3敗で退け、3年連続でファイナルに進出。ファイナルではお馴染みのライバルだった、この年セルティックスに次ぐ49勝をあげたセントルイス・ホークスが待っているはずだったが、彼らはデビジョン決勝で不覚を取った。ホークスを破ってファイナルに勝ち上がったのはミネアポリス・レイカーズ(後のロサンゼルス・レイカーズ)。後に時代を跨いでセルティックスの最大のライバルとなるレイカーズとの、初の頂上決戦が実現した。記念すべき最初の対決は、しかし両者のチームとしての完成度は天と地ほどの開きがあり、エルジン・ベイラーのワンマンチームであったレイカーズを、セルティックスは4戦全勝で一蹴。あっさりと王座に返り咲いた。完敗したレイカーズのヘッドコーチ、ジョン・クンドラは「我々はビルの居ないセルティックスを恐れない。彼をどこかへやってくれ。そうすれば我々は彼らを倒すことが出来る。彼は精神的にも我々を鞭打ってくれた」とラッセルのプレイに舌を巻いた。 1シーズンを置いて再び王座に返り咲いたセルティックスは、今後7シーズン続けてこの椅子に座り続けることになる。アメリカプロスポーツ史上最長となる八連覇の時代は、こうして幕を開けた。 1959-60シーズン、Battle Of Titans セルティックスは前年をさらに上回る59勝16敗(当時のNBA最長記録となる17連勝も記録した)、ラッセルは18.2得点24.0リバウンドを記録。2度目の優勝を経て自身もチームも絶頂期を迎えつつあるこのシーズン、NBAはかつてない新人を迎える。216cmの長身を誇るウィルト・チェンバレンである。チェンバレンはルーキーイヤーから37.6得点27.0リバウンドという先例のない数字を残し、新人王のみならずシーズンMVPを受賞。得点王に加え、リバウンド王の座もラッセルから奪った。 ラッセルとチェンバレン、両者は選手のタイプとしては対極に立つ2人だった。ラッセルはリーグ随一のディフェンダーであり、そしてチェンバレンはオフェンスに特化した最強のスコアリングマシーンだった。その2人のビッグマンが同じ時代に同じリーグに並び立つ。そこにライバル関係が成立しないはずはなく、チェンバレンの登場はラッセルにとって2人と居ない好敵手の登場を意味した。1959年11月7日、ラッセルのセルティックスとチェンバレンのフィラデルフィア・ウォリアーズが対戦、両者は初めて相見え、ラッセルの22得点に対し、チェンバレンは30得点をあげ、試合は115-106でセルティックスの勝利という形で、後にNBA史上最大のライバル関係の一つとされる2人の最初のThe Big Collisionは幕を閉じた。ラッセルとチェンバレンの対決は『The Big Collision(大激突)』、あるいは『Battle Of Titans(巨人たちの戦い)』と呼ばれ、当時のNBAの最大の呼び物として人気を集めることになる。 プレーオフ・デビジョン決勝では再びウォリアーズとの対戦が実現したが、ラッセル率いるセルティックスは4勝2敗でウォリアーズを退けた。以後、ラッセルとチェンバレンのライバル関係は、個人成績ではチェンバレンが上回りながらも、チームとしての対決ではラッセルのセルティックスが尽くチェンバレンのチームを駆逐するという関係が続く。 ファイナルではお馴染みのホークスが待っていた。当時最大のライバルチームだった両者3度目の対決は第7戦までもつれた末に、セルティックスが4勝3敗でホークスを降し、ミネアポリス・レイカーズが1954年に達成して以来となる連覇を成し遂げた。このシリーズでラッセルは第2戦ではファイナル史上最多となる40リバウンド、第7戦では22得点35リバウンドと大活躍だった。 1960-61シーズン、三連覇の達成 連覇を成し遂げてもなおラッセルのモチベーションは落ちず、1960-61シーズンも16.9得点23.9リバウンドと安定した成績を残し、2度目のシーズンMVPを受賞。チームも57勝22敗と5年連続でリーグトップの勝率を記録した。プレーオフ・デビジョン決勝でシラキュース・ナショナルズを破ったセルティックスは、ファイナルではホークスと5度目にして最後の対決を4勝1敗で制して4回目の優勝を果たし、NBA史上2度目となる三連覇を達成した。 1961-62シーズン、最大の危機 この5年間で三連覇を含む計4回の優勝を成し遂げたセルティックスだが、王朝の基盤をより磐石なものにするためにも、チーム内の世代交代を進めなければならなかった。そして新シーズン開幕前に、セルティックスの主要得点源だったビル・シャーマンが引退。彼にかわってサム・ジョーンズがチーム内で台頭した。このようにセルティックスは連覇記録を伸ばすために絶えず選手の入れ替えを行っていくが、王朝終焉を迎えるその時まで、ラッセルの大黒柱としての存在は不動のものだった。 1961-62シーズンはウィルト・チェンバレンが平均50.4得点、1試合100得点を達成した伝説的なシーズンとして記憶されるが、このシーズンのMVPを獲得したの2年連続の受賞となるラッセルだった。ラッセルは18.9得点23.6リバウンドと例年通りの数字を残した上で、チームを史上初の60勝越えとなる60勝20敗の成績に導いていた。プレーオフ・デビジョン決勝では伝説のシーズンを過ごしたチェンバレンのウォリアーズと2度目の対決となったが、チェンバレンが毎夜50得点あげようとも、最後に笑うのはセルティックスだった。ラッセル率いるセルティックスは第7戦までもつれたこのシリーズを、サム・ジョーンズのクラッチシュートという形で締めくくり、4勝3敗で制して6年連続のファイナル進出を決めた。 ファイナルでは3年ぶり2度目となるレイカーズとの対決が待っていた。前回のレイカーズはエルジン・ベイラーのほぼワンマンチームだったが、今回はジェリー・ウェストという強力な仲間を得てセルティックスとのリベンジマッチに備えていた。このファイナルで両者は初めてライバルらしい激戦を演じ、2勝2敗のタイで迎えた第5戦ではベイラーのファイナル記録となる61得点にやられ、2勝3敗とシリーズをリードされた。第6戦ではセルティックスが勝利し、優勝の行方は第7戦に委ねられる。そして勝った方が優勝という緊張感みなぎるこの試合で、セルティックスを八連覇時代最大の危機が襲った。 100-100の同点で迎え第4Q終盤。レイカーズのオフェンスにセルティックスは当然得点源のベイラーとウェストにディフェンスを集中させたが、ボールはオープンのフランク・セルヴィに渡り、セルヴィは7フィートの位置からシュートを打った。残り時間は5秒を切り、これが決まればレイカーズの勝利と優勝がほぼ決定付けられたが、セルヴィのシュートは幸運にも外れ、試合はオーバータイムに突入した。命拾いしたセルティックスだったが、彼らは追い込まれていた。ベイラーらへの懸命なディフェンスが仇となり、オーバータイムに入った時点でトム・ヘインソーン、ジム・ロスカトフ、サッチ・サンダースらセルティックスの主力フォワード3人がファウルアウトに追いやられていたのだ。そしてオーバータイムではさらにフランク・ラムジーもファウルアウトとなり、セルティックスの陣容は壊滅的な状況となった。しかしこのチームの危機にラッセルの真価が発揮され、ラッセルはコート上に残された4選手を見事に統率。ベイラーにマッチアップする普段殆ど出番の無いジーン・グアリアにも巧みにヘルプディフェンスに走ってベイラーを抑え込むと、自身は30得点と自身が持つファイナル最多記録タイとなる40リバウンドを記録し、110-107でセルティックスを勝利に導いた。ついに前人未到の四連覇を達成したセルティックスは(この時代のセルティックスを除き、2019年現在に至るまで四連覇以上を達成したチームは一つも存在しない)、今後もさらに連覇記録を伸ばすことになるが、このシーズンのプレーオフは2つのシリーズいずれもが第7戦までもつれる接戦となり、八連覇時代のセルティックスが優勝する上で最も苦労したシーズンとなった。 1962-63シーズン シーズン前のドラフトでは王朝後期にエースとして活躍するジョン・ハブリチェックが指名され、また新しい血を注ぐのみでなくウィリー・ナオルス、クライド・ラブレットというベテラン獲得もそつ無くこなし、1962-63シーズンも7年連続リーグトップとなる58勝22敗を記録。ラッセルは変わらず16.8得点23.6リバウンドと大黒柱としての役割を完遂して3年連続4度目のシーズンMVPを獲得し、19得点24リバウンドをあげたオールスターでは初のMVPに輝いた。プレーオフ・デビジョン決勝ではオスカー・ロバートソン率いるシンシナティ・ロイヤルズに苦戦を強いられ、7戦中2試合がオーバータイムにもつれる接戦だったが、4勝3敗で辛うじて退けると、ファイナルでは2年連続となるレイカーズとの対戦を4勝2敗で制し、五連覇を達成した。 1963-64シーズン 長年セルティックスの司令塔を務めたボブ・クージーが引退し、彼のかわりにラッセルの学生時代からの戦友だったK.C.ジョーンズが先発ガードに昇格。円熟期を迎えたラッセルは15.0得点24.7リバウンドをあげてウィルト・チェンバレンから5年ぶりにリバウンド王の座を奪回、セルティックスはクージーを失ってもなお8年連続リーグトップとなる59勝21敗の成績を残した。ファイナルではチェンバレン率いるウォリアーズ(フィラデルフィアからサンフランシスコに本拠地を移し、ウェスタン・デビジョン王者としてファイナルに進出した)と対決。Battle Of Titans第3幕となったこのシリーズ、ラッセルは第1戦でウォリアーズの誇る2人のビッグマン、チェンバレンとネイト・サーモンドのシュートを立て続けにブロックするという離れ業をやってのけ、チームを波に乗せると、セルティックスは4勝1敗でウォリアーズを粉砕し、当時、アメリカのどのプロスポーツチームも成し遂げたことのない六連覇を達成した。 1964-65シーズン セルティックスは自らが保持する記録を再び更新する62勝18敗をあげ、14.1得点24.1リバウンド5.3アシストを記録し、2年連続のリバウンド王に輝いたラッセルは、30歳の節目の年に自身5度目のシーズンMVPを獲得。5回のシーズンMVP獲得はカリーム・アブドゥル=ジャバーに破られるまでの歴代最多受賞だった。プレーオフ・デビジョン決勝ではフィラデルフィア・76ersと対戦。シーズン中に76ersに移籍してきたチェンバレンとの2年連続の対決が実現した。プレーオフ4度目の大激突は激戦となり、第3戦ではラッセルがチェンバレンを第3Qまでフィールドゴールをわずか2本に抑えると、第5戦28リバウンド7アシスト10ブロック6スティールを記録。第7戦ではチェンバレンが30得点32リバウンドをあげると、ラッセルも16得点27リバウンド8アシストを記録した。ここまでこのシリーズはラッセル、チェンバレンのNBAが誇る2人の巨人のための舞台となっていたが、第7戦、シリーズの行方を決する最後の場面で輝いたのはラッセルでもチェンバレンでもなかった。110-109のわずか1点リードで迎えた試合終盤、この大事な場面でラッセルはスローインをミスしてしまい、ボールの保持権を76ersに与えてしまう。逆転を狙う76ersはハル・グリアがスローインを入れたが、そのボールをジョン・ハブリチェックが見事にスティールし、チームを勝利とファイナルに導いた。ハブリチェックのスティールは実況のジョニー・モストが叫んだ「ハブリチェックがボールを奪った!試合終了!ジョン・ハブリチェックがボールをスティールしました!(Havlicek stole the ball! It's all over! Johnny Havlicek stole the ball!)」という言葉と共に八連覇時代の伝説の一つとなった。 ファイナルではベイラー、ウェストのレイカーズと4度目の対決となったが、4勝1敗で危なげなくシリーズを制し、ファイナル七連覇を達成した。 1965-66シーズン、八連覇達成 どの王朝にも終焉の時はやってくるが、1960年代に我が世の春を謳歌していたボストン王朝もその例外ではなく、王朝チームの衰退期は着々と訪れているように思えた。七連覇を達成した後のオフ、ラッセルとは同期のトム・ヘインソーンと、名ディフェンダーだったジム・ロスカトフが引退。これでセルティックスの全ての優勝を知るのはラッセルのみとなった。サム・ジョーンズはまだまだチームのリーディングスコアラーとして活躍し、先発に定着したハブリチェックは益々存在感を高めてはいたが、このシーズン54勝26敗だったセルティックスは、10年ぶりに勝率首位の座を他チームに明け渡した。そしてセルティックスのかわりにリーグ首位の座に座ったのが、チェンバレンのフィラデルフィア・76ersだった。 毎年第1シードの特権としてプレーオフ1回戦(デビジョン準決勝)を免除されてきたセルティックスだが、この年は10年ぶりに1回戦からの参加となった。初戦の相手、シンシナティ・ロイヤルズはオスカー・ロバートソンにジェリー・ルーカス擁する強敵で、セルティックスは3戦先勝制の1回戦で1勝2敗と先に王手を掛けられ、いきなりピンチに陥った。しかしその後2連勝を飾ったセルティックスが、辛うじてデビジョン決勝に進出、76ersとの対決を迎えた。Battle Of Titansは今度こそチェンバレンの勝利かに見えたが、しかしロイヤルズに対する2連勝で波に乗ったセルティックスは、76ersに苦戦するどころか4勝1敗で降し、10年連続のファイナル進出を果たした。 ファイナルは2年連続5回目となるレイカーズと対戦。第1戦にセルティックスはオーバータイムの末に敗れるが、敗戦のショックも覚めやらぬ試合終了後、コーチ・アワーバックから衝撃的なコメントが発表された。アワーバックはこのシーズン限りをもってヘッドコーチの座から退くことを宣言し、さらに後任にビル・ラッセルを指名したのである。ラッセルは未だ現役の選手であり、この発表はラッセルが選手兼任のままヘッドコーチの重責を担うこと、さらにはアメリカプロスポーツ史上初の黒人ヘッドコーチ誕生を意味した。名コーチ、アワーバックの引退、ラッセルのコーチ就任、初の黒人ヘッドコーチの誕生と驚き尽くめの発表は、セルティックスの選手に敗戦のショックを忘れさせ、続く第2戦以降を3連勝させた。悲願の優勝に向けて粘るレイカーズもその後2連勝し、シリーズは第7戦に突入。最後はこの日足に骨折を抱えたままでプレイを続けたラッセルの32リバウンドの活躍でセルティックスが勝利。早まったファンがコートにオレンジジュースをぶちまけ、サッチ・サンダースが興奮したファンたちにユニフォームを奪われるなか、セルティックスが空前絶後の八連覇を達成した。八連覇はNBAはもちろんのこと、アメリカプロスポーツ史上どのチームも成し遂げていない金字塔である。
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