入植と開拓農協
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1945年(昭和20年)に太平洋戦争が終結。在外日本人約600万人が帰国することとなり、彼らを国土へいかに収容するかについての計画が必要となった。国民の食糧確保が内政上の最緊急課題とされ、耕地の量的拡大による食糧増産および戦地からの引揚者の帰農を図るために、11月に緊急開拓事業実施要領が閣議決定された。この要領に従って、京都府が当地を開拓農地として選定し、国が不在地主の土地を買い上げることとなった。しかし、すべてが民有地であったため、買収は難航。当初計画の約80余町歩(約0.8km²)は困難となり、入植時は約30余町歩(約0.3km²)に留まった。その後、時間をかけて所有地主の理解と協力を得ながら、追加買収を進めることとなった。それでも、一世帯当たり農地1.5haや宅地180坪が割り当てられる計算で、食糧難の時代に行き場を探していた引揚者にとっては「御の字」ともいえる条件ではあった。 1948年(昭和23年)、洛北開拓農業協同組合(開拓農協)が設立され、満蒙開拓青少年義勇軍京都第三中隊長の前原関三郎を組合長として、開拓計画を策定。19世帯が入植した。 昭和23年10月12日10時に京都駅近くの京都府開拓自興会事務所に入植確定者12名のうち10名が参集、(中略)直ちに入植の準備に移った。(中略)自興会事務所のリヤカーを借受け、駅前から金閣寺を目指して市街地を縦断して行く、(中略)開こん資材に仮泊設備用の木材を満載してロープで肩を引く、軍の作業服に、戦斗帽姿の一行が汗にまみれて進んでいく姿は道行く街の人々の注視を浴びたのも無理からぬと思えるいで立ち、リヤカーの一行が金閣寺を通り越して、衣笠氷室町に入ると間もなく、(中略)精根つきて休もうという。(中略)体勢も構わず道ばたに座りこんでしまう。強行軍が余程疲れたのだろう、近くで見つめる数人の奥さんたちがこんなこともささやいていた。「あの人たちが、原谷の開拓者らしいがあんなところで開こんを始めても、おそらく長続きはしないだろうに?」 聞えた者は顔を見合わせていたが「やり抜いて見せるぞ」の決意を固めている一行には、それ程気にならない。さあ、行こうの声で山道にかかったのが12時頃、 ―急な坂道では足が伴わない、そのうちに肩が切れそうな痛みを覚えてくる― 第1日から道なき土地の不便さ、苦しさを嫌というほど思いしらされ、やっと一行が現地(予定地)に着いたが休憩所があったわけではなかった。 水筒は空になっていたが、補給するお茶もない、一切は作らねばできない開拓とはいえ、先発の連中への不満も少しは出てくる。やっと落着いたのが午後3時頃、運搬に手間取ったことから予定の休息所兼仮泊設備は夕方までかかり、陽の落ちるまで明日からの作業予定を協議し、1日も早く現地に住み込む準備に努力をなそう。 「開拓地の建設はじまる(昭和23年)」より一部抜粋、原文ママ 地域内外を結ぶ幅員4mの幹線道路は全額国庫で敷設されたものの、入植者たちは木を伐採し、直径50cm近い切り株を一日に一、二株ずつ取り続けた。それが終わると家の建築、井戸掘り、畑の開墾を同時並行で進めた。家が建つまでは、どの入植者も自宅から通いながら作業を続けた。 1949年(昭和24年)に開拓農協事務所が落成し、換金かつ栄養確保のため、畜産動物の導入と、野菜栽培を軸とした営農計画を策定。しかし、苦心して畑を開墾するも、 酸性度の強い土壌のために、種すら取れない状況が続いた。また、仔豚を購入して豚舎を急造するも、その年の秋には豚肉相場の暴落で、価格は購入時の3分の1にも満たず、多くの組合員が失意のうちに養豚に見切りをつけたという。それでも土づくりのため、開墾と酪農を続けざるを得なかった。 1950年(昭和25年)5月より、その後の建設事業について、京都府の失業対策事業で行われることが決定。連日百名を超える作業員に支えられ、幅員2、3m前後の支線道路や山腹水路 、排水路が次々と設けられることとなった。同年12月には当地内に待望の電気が開通した。 ひるは建築の共同作業に朝夕は各自が受持つ開墾作業にと、全く休むいとまもない重労働の連続で、2ヶ年余り無灯に等しいカンテラ生活、播けど育だたず、植えれど伸びない開墾畑の作物、積って行くのは営農借入金で、酸性土に苦しみながらも、わずかのカユと屑芋で飢えをしのぎ、まさに砂を咬む思い ― あの恐ろしい自然の暴威、ジェーン台風で大半の住宅が屋根は飛ばされ、家は傾き倒されて、今年まで少しでもと期待をこめた農作物は全滅状態までに叩かれ、最悪の事態に直面したあの当時、台風一過後ただちに開かれた復旧対策を立てるための緊急総会に集まったみんなの顔 ― 応急対策に次ぐ復旧計画は直ちに総会で一決し、その翌日より全組合員が出動して、被災住宅の復旧に全力を傾むけ、3ヶ月余で被災前よりも立派な住宅を再建させた。その年の12月には待望の電気の導入、2ヶ年余り続いたほの暗い夜の開拓地にあかあかと映える電灯の光を仰いだときのよろこびは、言葉ではつくし得ないほどであった。 「20年を顧みて」(組合長 平野辰男)より一部抜粋、原文ママ 京都市内にありながら、当初は電気も水道も通じておらず、まして開拓に必要となる初期投資さえも得ることができなかった中で、入植者は困難を極めつつ、荒地の開墾や居住地の譲受、そして農地開発のための基盤整備を進めていった。入植者の子供たちも、家畜の飼料をもらうため、毎日のように峠を越えて魚屋などを巡ったという。 1950年代の写真や映像記録などからは、養鶏、養豚、果樹園や、畑を歩く牛と酪農設備などの営農風景が映し出されている。この頃にようやく農地が完成し、酪農や養鶏も本格化。市内の農家の中でも高い収入を得られるようになったとされる。 1962年(昭和37年)に、就労延べ人員90万人超、事業費3億7887万円に達した失業対策事業は完了することとなり、地域内の道路、水路、広場などの施設は、開拓農協に有償で引き渡された。
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