入植と開拓農協とは? わかりやすく解説

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入植と開拓農協

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 15:19 UTC 版)

原谷 (京都市)」の記事における「入植と開拓農協」の解説

1945年昭和20年)に太平洋戦争終結在外日本人600万人帰国することとなり、彼らを国土へいかに収容するかについての計画が必要となった国民食糧確保内政上の最緊急課題とされ、耕地量的拡大による食糧増産および戦地からの引揚者帰農を図るために、11月に緊急開拓事業実施要領閣議決定された。この要領に従って京都府当地開拓農地として選定し、国が不在地主土地買い上げることとなった。しかし、すべてが民有地であったため、買収難航当初計画の約80町歩(約0.8km²)は困難となり、入植時は約30町歩(約0.3km²)に留まった。その後時間をかけて所有地主理解協力を得ながら、追加買収進めることとなった。それでも、一世帯当たり農地1.5haや宅地180坪が割り当てられる計算で、食糧難時代行き場探していた引揚者にとっては「御の字」ともいえる条件ではあった。 1948年昭和23年)、洛北開拓農業協同組合開拓農協)が設立され満蒙開拓青少年義勇軍京都第三中隊長の前原三郎組合長として、開拓計画策定19世帯入植した昭和23年10月12日10時京都駅近く京都府開拓自興会事務所に入植確定12名のうち10名が参集、(中略直ち入植準備移った。(中略)自興会事務所のリヤカー借受け駅前から金閣寺目指し市街地縦断して行く、(中略)開こん資材仮泊設備用の木材満載してロープで肩を引く、軍の作業服に、戦斗帽姿の一行が汗にまみれて進んでいく姿は道行く街の人々注視浴びたのも無理からぬ思えるいで立ちリヤカー一行金閣寺通り越して衣笠氷室町に入ると間もなく、(中略精根つきて休もうという。(中略体勢構わず道ばた座りこんでしまう。強行軍が余程疲れたのだろう、近くで見つめる数人奥さんたちがこんなこともささやいていた。「あの人たちが、原谷開拓者らしいがあんなところで開こんを始めても、おそらく長続きはしないだろうに?」 聞えた者は顔を見合わせていたが「やり抜いて見せるぞ」の決意固めている一行には、それ程気にならない。さあ、行こうの声で山道かかったのが12時頃、 ―急な坂道では足が伴わないそのうちに肩が切れそうな痛み覚えてくる― 第1日から道なき土地不便さ苦しさ嫌というほど思いしらされ、やっと一行現地予定地)に着いた休憩所があったわけではなかった。 水筒は空になっていたが、補給するお茶もない、一切は作らねばできない開拓とはいえ先発連中への不満も少し出てくる。やっと落着いたのが午後3時頃、運搬手間取ったことから予定休息所兼仮泊設備夕方でかかり、陽の落ちるまで明日からの作業予定協議し1日早く現地住み込む準備努力をなそう。 「開拓地建設はじまる(昭和23年)」より一部抜粋原文ママ 地域内外を結ぶ幅員4m幹線道路全額国庫敷設されたものの、入植者たちは木を伐採し直径50cm近い切り株一日一、二ずつ取り続けた。それが終わると家の建築井戸掘り、畑の開墾同時並行進めた。家が建つまでは、どの入植者自宅から通いながら作業続けた1949年昭和24年)に開拓農協事務所落成し換金かつ栄養確保のため、畜産動物導入と、野菜栽培を軸とした営農計画策定。しかし、苦心して畑を開墾するも、 酸性度の強い土壌のために、種すら取れない状況続いたまた、仔豚を購入して豚舎急造するも、その年の秋に豚肉相場暴落で、価格購入時3分の1にも満たず多く組合員失意のうちに養豚見切りをつけたという。それでも土づくりのため、開墾酪農続けざるを得なかった。 1950年昭和25年5月より、その後建設事業について、京都府失業対策事業行われること決定連日百名超える作業員支えられ幅員2、3m前後支線道路山腹水路排水路次々と設けられることとなった同年12月には当地内に待望電気開通した。 ひるは建築共同作業朝夕各自受持つ開墾作業にと、全く休むいとまもない重労働連続で、2ヶ年余り無灯等しカンテラ生活、播けど育だたず、植えれど伸びない開墾畑の作物積って行くのは営農借入金で、酸性土に苦しみながらも、わずかのカユと屑飢えをしのぎ、まさに砂を咬む思い ― あの恐ろしい自然の暴威ジェーン台風大半住宅屋根飛ばされ、家は傾き倒されて、今年まで少しでもと期待をこめた農作物全滅状態までに叩かれ最悪事態直面したあの当時台風一過後ただちに開かれた復旧対策立てるための緊急総会集まったみんなの顔 ― 応急対策に次ぐ復旧計画直ち総会一決し、その翌日より全組合員出動して、被災住宅復旧全力を傾むけ、3ヶ月余で被災前よりも立派な住宅再建させた。その年の12月には待望電気導入、2ヶ年余り続いたほの暗い夜の開拓地あかあかと映える電灯の光を仰いだときのよろこびは、言葉ではつくし得ないほどであった。 「20年顧みて」(組合長 平野辰男)より一部抜粋原文ママ 京都市内ありながら当初電気水道通じておらず、まして開拓に必要となる初期投資さえも得ることができなかった中で、入植者は困難を極めつつ、荒地開墾居住地譲受、そして農地開発のための基盤整備進めていった。入植者の子供たちも、家畜飼料をもらうため、毎日のように峠を越えて魚屋などを巡ったという。 1950年代写真映像記録などからは、養鶏養豚果樹園や、畑を歩く牛と酪農設備など営農風景映し出されている。この頃にようやく農地完成し酪農養鶏も本格化。市内農家中でも高い収入得られるようになったとされる1962年昭和37年)に、就労延べ人員90万人超、事業費3億7887万円達した失業対策事業完了することとなり、地域内の道路水路広場などの施設は、開拓農協有償引き渡された。

※この「入植と開拓農協」の解説は、「原谷 (京都市)」の解説の一部です。
「入植と開拓農協」を含む「原谷 (京都市)」の記事については、「原谷 (京都市)」の概要を参照ください。

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