メルヴィル陣地の制圧と破壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 02:51 UTC 版)
「トンガ作戦」の記事における「メルヴィル陣地の制圧と破壊」の解説
もう一つの目標はメルヴィル陣地とそこに設置された大砲で、制圧後速やかに破壊することが要求された。実行部隊は、テレンス・オトウェイ中佐以下、第9空挺大隊であった。 この陣地には4つの砲台があり、上陸部隊の舟艇と人員に砲撃を加えることが可能であった。この脅威を取り除くための最も有効な手段は、連合軍総司令部の見解によれば、空挺降下であった。イギリス軍情報部が把握していた敵情は次の通りである。この陣地には150mm砲が4門あり、コンクリート厚は少なくとも1.8mで上部に土が被せられており、鋼鉄製のドアが隠されている。また、陣地のまわりも重防御となっており、陣地の西と北西360mにわたって幅4.5m・深さ3mの対戦車壕が構築されている。さらに二つの鉄条網があり、鉄製の有刺鉄線を組み合わせたものが高さ2m・幅3mにわたって敷設されている。鉄条網の背後は地雷原となっている。陣地内部への接近道路付近にも広く地雷が埋設されている。陣地内には約160名が配置されており、うち15-20名の歩兵が守備を担当しており、守備隊には4-5挺の機関銃が配備されている。さらに3基の20mm対空機関砲が配備されている。しかしながら、レジスタンスが弾薬輸送列車を破壊しており、弾薬の備蓄量はそれほどないであろうという意見もあった。陣地の指揮所は、ソード・ビーチに近い、陣地の約2kmほど北にあった。 第9空挺大隊の降下目標地点には、陣地の南東およそ2kmのAZ-V地点が選定された。計画としては、本隊の降下前に、カナダ軍第1空挺旅団が降下して、降下地点を制圧し安全を確保する。そして、斥候として第22独立空挺中隊が、降下地点を本隊(第9空挺大隊)に示すためのユーレカ・ビーコンを設置する。カナダ軍第1空挺大隊A中隊は本隊を側面から援護する。そして陣地の前まで進み、攻撃の準備を行う。そして、0時30分から0時50分の間に、イギリス空軍のアブロ ランカスター爆撃機とハンドレページ ハリファックス爆撃機100機が、635トンの爆弾を投下することとなっていた。 待機していた第9空挺大隊オトウェイ配下の650-785名の兵士達は、主に18-20歳の若者で構成されており、ニューバリーに近いウエスト・ウッドバリーに原寸大で作られた模擬陣地で演習を繰り返し、各隊員は自分が何をしなければならないかを正確に記憶していた。いくつかの部隊はすでに出撃準備のための集合をかけられていた。 集結のための斥候隊も編成され、0時20分に先行降下して集結地点に向かうこととなっていた。斥候隊の任務は重要であった。彼らは本隊が降下すべき地点を指示し、本隊が降下完了するまで彼らとともに見張りを置き、地点を確保する。そしてそれらの状況を指揮官に伝達することとなっていた。本隊の進出方向は、最良と思われる陣地背後からと企図された。 本隊の主力は0時50分に降下を開始する。最初に地雷探知機を装備した部隊が先行し、敵陣のまわりに敷設されている地雷原において地雷を探知し、発見した場合には旗で位置を表示する。この作業の時間節約のため、部隊は分隊に分けられた。移動開始は2時35分とされた。本隊は敵陣から500ヤード(約457m)の位置に布陣し、4時10分から20分の間に集結する。A中隊および第591空挺工兵中隊は3機のホルサ・グライダーに分乗し、陣地に固定された砲を破壊するための爆薬と点火装置を携行していた。また、迫撃砲1門で援護射撃を行うこととなっていた。攻撃開始2分半後に信号弾を発射し、それを合図に、正門も含めたあらゆる位置から一斉射撃を行う。さらに2分半後にはグライダーが陣地内に強行着陸を行い、これを合図として迫撃砲の援護射撃を終わらせる(この間、迫撃砲は持続射撃を行うこととされた)。B中隊は鉄条網を破壊し、その上でC中隊が陣地を攻撃する。 もし5時30分までにオトウェイの部隊から使命達成の連絡がない場合、イギリス海軍の軽巡洋艦アリシューザが艦砲射撃を開始することとされた。
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メルヴィル陣地の制圧と破壊
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オトウェイ中佐率いる第9空挺旅団の部隊員は、広い範囲に散在した。おそらくは最初に少人数ずつ集まって集結地点を目指したが、ドイツ軍に発見されるのが早すぎたなどの理由で作戦参加不能とみなされた。奇襲攻撃に参加できたのは、確保された集合地点に2時50分に到着できた150名だけであった。 さらに、作戦遂行に必要なジープ、対戦車兵器、迫撃砲、地雷探知機、衛生兵、工兵、海軍への連絡係が補給地点に集結できていなかった。彼らは陣地近くのゴネヴィル・シュル・メルヴィルまで移動し、空軍による爆撃を待ち、その後メルヴィル陣地を破壊、もしくは少なくとも損害を与えるつもりであった。しかしながら、空軍は爆撃目標を見失ってしまい、代わりにゴネヴィル・シュル・メルヴィルに爆撃を行い、イギリス軍部隊を混乱させた。 グライダーの1機が、20mm対空砲による銃撃でコースを逸らされた。しかしオトウェイは、計画よりもはるかに少ない兵員と装備という事実にもかかわらず、陣地を攻撃することを決断した。兵士アラン・ジェファーソンは、次のように回想している。「私はオトウェイを凝視していた。彼は冷蔵庫から出した死体のように白く、気分がすぐれないように見えた」。直後にオトウェイは言った。「私は選択肢を二つ持っている。撤退するか、攻撃するか。しかし、仮に私が友人の前に立った時、彼に諦めたと言いたくはなかった。だから、私は攻撃することにした」。 4時30分頃、オトウェイは集結した人員を4個の攻撃部隊に再編成した。彼らは陣地を背後から攻撃した。陣地を囲む鉄条網はオトウェイ配下の兵が切断した。パリー少佐に率いられたA・C中隊が地雷原に二つの経路を作るため、地雷探知機なしで地雷の発見と信管の除去を行った。しかし、彼らが上方に進出した際、ドイツ兵に発見されて、6挺の機関銃による銃撃を受けた。大隊が使用できる唯一のヴィッカース機関銃が持続射撃を行う間、ナイト軍曹率いる小部隊は正門前で3挺分の機関銃手を銃剣と手榴弾で制圧した。ナイト軍曹はその後自在に動き回り、陽動を行ってドイツ兵の注意を逸らした。 この戦闘中、2機のグライダーが陣地に接近しつつあった。しかし、彼らはユーレカ・ビーコンがうまく作動しておらず、爆撃の煙が充満していたため、着陸地点を見失ってしまった。このため、グライダーのパイロットは肉眼だけで操縦を行っていた。うち1機は目標地点から約3.2キロ離れた村の近くに着陸してしまった。これが発見されて銃撃を受けている際、もう1機のパイロットはドイツ軍機関銃曳光弾の曳光から陣地を発見し、陣地から約700mの地点に着陸した。着陸の衝撃でグライダーは破損し、数名の兵が負傷したが、彼らは陣地に向かって行進していたドイツ兵を見つけ、待ち伏せ攻撃を行うためすぐにグライダーを降りた。 オトウェイは軽巡洋艦アリシューザに、無線で陣地への砲撃を要請しており、アリシューザはすでに要請に応じていた。このため、イギリス兵は陣地からいったん撤退した。これは陣地を再び取り戻すため、地下壕に隠れていたドイツ兵が地上に姿を現すのを待つためである。そして、ドイツ兵が外へ出てきた際にアリシューザが砲撃を始めたが、これは地上のイギリス兵にとっての砲撃支援となった。 グライダーが到着したため、オトウェイ中佐は攻撃命令を出した。パリー少佐は笛を鳴らし、鉄条網を爆破するため、部下にバンガロール爆薬筒を発破させた。直後に4個の部隊は突撃を開始した。暗闇では際だった経路が見えず、何名かが地雷原に迷い込んだ。ドイツ兵は3挺の機関銃を発砲したが、すぐにブレンガン射手と狙撃手により制圧された。敵の砲火と地雷の爆発の中、腰だめ射撃と手榴弾で応戦しながら陣地に突入した。これは一種の奇襲攻撃となったが、ドイツ兵はすぐに態勢を立て直し、まず全域を照らすために照明弾を打ち上げた。さらには隣のカブール陣地に対して、地雷原に対して砲撃を要請したほどであった。 オトウェイは最終的に砲を破壊するために、彼の予備部隊に最後の機関銃手の制圧を命令した。次に陣地内に進入し、敵砲兵を次々に制圧した。工兵と爆発物が届いていなかったため、部隊員が持っていた対戦車高性能爆弾ギャモンを使って砲を爆破した。 陣地から2km北の地点の指揮所があり、ドイツ軍駐屯部隊の指揮官ライムント・シュタイナーと、22歳の電話交換手、電気技師・測量技師が詰めている指揮所が、運河を監視していた。イギリス兵とカナダ兵は、この指揮所を奇襲した。4時頃まではシュタイナーが電話で襲撃ごとに報告を受け、命令を行っていたが、奇襲部隊はこの指揮所を奪取したあと、そこにそのまま籠城した。イギリス兵は指揮所の中で、ドイツ軍の「劣勢である」という電話報告を聞いていた。 5時には、陣地はイギリス兵が制圧しており、周囲は虐殺の様相を呈していた。最終的にイギリス空挺隊員は65名が戦死、30名が負傷、22名が捕虜となった。また、本日に至るまで190名が行方不明となっている。一方、ドイツ軍陣地に詰めていた兵は少なくとも130名が死亡、生存者はわずか6名であった。 作戦終了後に、砲座に据えられていた砲が、150mm砲ではなく旧式の100mm砲であったことが判明したが、上陸部隊の脅威は明確に取り除かれた。メルヴィル陣地への攻撃は、少人数による攻略作戦として、空挺師団の歴史で最も優れたものの一つと考えられている。
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