コンビ解消
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1955年12月から1956年3月にかけケープハートはまだエコーとの契約の残るコクラン・ブラザースをバッキングに起用し2枚のシングルを制作、キッシュ(Cash)からリリース。出版社アメリカン・ミュージックに対しコクラン・ブラザースの宣伝を開始、4月4日ゴールドスター・スタジオで同社へのデモ「ピンク・ペグ・スラックス」他5曲を録音。「ピンク~」はエディが初めてソロ・ヴォーカルを取るロカビリー・タイプの曲。 4月(もしくは5月)、エコー3枚目のシングル制作。カントリーからロックンロールへ、新たな方向性を示すセッションとなった。しかしハンクはカントリーシンガーとしての矜持と商業主義とも思える路線変更に対し疑問を抱き、この録音を最後にエディとのコンビを解消する事になる。また、エコーのレッド・マシューズは事あるごとに干渉してくるケープハートに嫌気がさし「タイアード&スリーピー/フールズ・パラダイス」のリリース(6月)をもってコクラン・ブラザースとの契約を終了する。結果的に二人の別れは双方の音楽キャリアに最高のものをもたらした。この後ハンクはナッシュビルに赴き数々ののヒット曲を送り出し、カントリー・ミュージックの殿堂入りを果たす。 「アメリカン・ミュージック」はハリウッドのカウボーイ映画で使用される曲の需要を見越してシルベスター・クロスが1935年に設立した音楽出版社。サン・オブ・ザ・パイオニアズの「クール・ウォーター」(1947)がヒット。マール・トラヴィス、デルモア・ブラザース等の数々のウェスタン・スタンダードを発表、1950年代初頭には西海岸の最重要出版社となっていた。1954年自社専属ライターのためのコンセプト・レーベル「クレスト(Crest)」を立ち上げ、急速に変化する音楽シーンに対応すべくカントリー、R&B、ノヴェルティのレコード制作を行っていた。 シンガー、ギタリストとして独り立ちすることになったエディは7月から8月にかけ多数のセッションを行う。その中からリトル・リチャードの「ロング・トール・サリー(のっぽのサリー)」にちなんで書かれた「スキニー・ジム(やせっぽちのジム)」がクレスト最初のシングルとして7月に発売される。
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コンビ解消
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1987年(昭和62年)の暮れ、二人は出版関係者にあいさつ状を配布し、コンビ解消の意思を表明した。その理由として「この辺で、二人三脚のヒモをほどいて、それぞれの足で歩いてみたらどうか、と話し合いました。新しい展開としてそれぞれやりたいことをやってみるのも面白いんじゃないかと」とした。藤本は自身が入退院を繰り返したことから「二人三脚でくくっていたほうの足が、かすかにヒリヒリしていた。ひもを解いてみれば、何か新しいことやれるのではないか」とし、安孫子は「いままでのように二人のペースを合わせるのは無理な年になってきた。漫画だけでなく、ぼくも文章なども書いてみたいが、藤子不二雄の名前では勝手なことやれない」とした。このあいさつ状で、これまで合作とされてきた各作品がそれぞれ分担で描いていたことを公式に明らかにした。 コンビ解消後、安孫子は「藤子スタジオ」に残り、藤本は「藤子プロ」を立ち上げ、藤子スタジオの隣のビルに移った。安孫子は藤子不二雄Ⓐに、藤本は藤子不二雄Ⓕとしたが、1年後に藤子不二雄Ⓕは石ノ森章太郎の薦めにより藤子・F・不二雄へと変えた(安孫子は死去するまで藤子不二雄Ⓐとして執筆活動を続けた)。 後に安孫子はインタビュー(『別冊宝島』409 ザ・マンガ家 / 宝島社)で、コンビ解消の理由として「藤本君は生活ギャグ一本でやってきたが、自分は傾向が変わってきた。ブラックユーモアを描くようになったのが転機となった。作品も生活も自分と藤本君とは違いが出て来た。自分が過激なのを描こうとして、藤本君の『ドラえもん』を傷つけるといけないから。50まで漫画やるとは思わなかったし、やる事はやり尽くして来たので、あとは好きなように気楽にやろうと別れた(以上要約)」と語っている。 しかし『笑ゥせぇるすまん』の元となった『黒ィせぇるすまん』はコンビ解消より20年近く前(昭和40年代)に執筆された作品であり、その時期既に安孫子は『黒ベエ』、『ブラック商会変奇郎』など、昭和50年代には『魔太郎がくる!!』などダークな作品群を多く発表している。 安孫子によると、青年漫画を描くようになった1973年頃、「少年雑誌にまた、たくさんおもしろいマンガをかいてください」という子供のファンレターを読み、少年漫画への回帰を決意した。しかし後年、安孫子は藤本の『ドラえもん』が大ヒットしたのを見て、「このままだと、藤本氏のマネジャーかアシスタントをやるしかないのでは」と内心悩んでいたと振り返っている。安孫子はその後、再び青年・大人向け漫画での活動が多くなるが、ブラックユーモアを描くようになってから、コンビ解消を決断するまで、かなり長い期間を必要とした。 また安孫子は「自分は社交性があるため、酒やゴルフを覚えたが、藤本君はそのようなことは一切しなかった。結果的に藤本君は少年のような心を持ち続けるきっかけとなり、逆に自分はこども心が薄れ、作風に差が出た」とも語っている。 コンビ解消を切り出したのは、安孫子によると、藤本の方であった。藤子不二雄としての著作権料は関与の度合いに関係なく均等に二分割だったが、どちらかの死後、遺族によって『ドラえもん』の巨額の著作権料の分配が問題となると予想され、それを未然に防ぐためにコンビを解消したという。藤本夫人の藤本正子によると、コンビ解消のきっかけは1986年に起きた藤本の胃癌(藤本は告知を受けていなかった)だった。手術後に藤本は復帰したが、また体調を崩し、その翌年に「安孫子氏と別れようと思う」と打ち明けた。 お互いの不仲によるコンビ解消ではなかったため、藤本は海外旅行へ行くたび安孫子には土産をプレゼントしており、安孫子も自宅の応接間にそれらを飾っているなど、コンビ解消後も交遊関係は続いていたという。また、映画鑑賞が共通の趣味である事から、映画の試写会で顔を合わせるのが常だったという。 事実上コンビとしての活動期間は36年に及び、“他人同士の漫画家ユニット”としては、2015年に『キン肉マン』などの作者・ゆでたまごが更新するまで日本の漫画家で最長だった。
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コンビ解消
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「ハム (お笑いコンビ)」の記事における「コンビ解消」の解説
2011年2月28日付で解散したことを諸見里が自身のブログで報告した。しかしハムの解散について川見は、自身のブログで「僕にとっても解散は青天の霹靂でまだ茫然としており、受け止められておりません。ショックで一か月で5kg痩せたくらいです。『解散するだけですぐ痩せられる! 川見式ダイエット本』を発刊してくださる出版社様がございましたらぜひご一報下さい。暗雲立ち込める出版業界に風穴をぶち開けましょう。」と突然の解散劇をギャグにしながらも、諸見里によって突如一方的に決められた解散に納得していない旨の発言をした。そのため一時は「諸見里が相方を見捨てたのでは?」という疑惑も浮上したが、それについて後に諸見里は「今まで長い間楽しい事やつらい事を共有して来た相方を捨てたなんて思っていません。(中略)僕の滑舌のせいで、滑舌を絡めたネタばかりになり、最近では正直劇場では飽きられていました。それでも応援してくれる皆さんの為に頑張ってきました。川見くんはネタを書く力があるので、僕は川見くんが別の相方と組んだ方が何にも縛られず自由な発想でネタが作れると思いました。」と説明している。また、2011年3月31日の『アメトーーク!』において、「自分がピンで番組に呼ばれた事と解散を発表するタイミングが重なった事で周囲から『調子に乗っている』と言われたが、実際には解散は(2010年の)年末には決まっていた」と語った。しかし関西では知名度があっても、全国区ではさほど知名度の無かったハムの解散はやはり諸見里の過信による一方的なものと認識され「滑舌で笑いを取ったからと言って薄情過ぎる」等ネット上を中心に批判を受け、先輩芸人からも揶揄された。
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