「地獄の門」からの脱出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 01:31 UTC 版)
「コルスン包囲戦」の記事における「「地獄の門」からの脱出」の解説
ドイツ第III装甲軍団による包囲方向への北側の攻撃はソビエト赤軍の決断と地形、燃料不足により停止した。ドイツ軍装甲部隊は239高地とシャンデロフカへ何度か進撃を試みたが失敗した。ソビエト赤軍の第5親衛戦車軍による反撃はドイツ第III装甲軍団に不利な防衛戦を強いることとなった。第8軍はシュテンマーマンに無線連絡を入れた。 「天候と補給状況のために第III装甲軍団の行動能力は制限されている。シュテンマーマン集団には自ら包囲を突破して、Zhurzintsy=239高地間の防衛線まで進撃して欲しい。第III装甲軍団とはそこで結びつく。」 しかし、このメッセージではZhurzintsyと239高地が未だにソビエト赤軍の手中にあることは知らせていなかった。第8軍はテオバルト・リープを包囲から脱出する部隊の指揮官に任命した。シュテンマーマン集団と第III装甲軍団の間はわずか7kmであったが、この地域はコーネフが「2月17日に起こるであろう最終的な敵殲滅のための攻撃に向けて部隊を移動させている」箇所であった。コーネフ配下の3個軍(第4親衛軍、第52軍・・・第5親衛騎兵軍団)が包囲を行い、第5親衛戦車軍の最精鋭を含む装甲部隊らがシュテンマーマン集団と第III装甲軍団の間に配置されていた。シュテンマーマンは第57歩兵師団、第88歩兵師団の残存部隊を合わせた将兵6,500名の部隊を後衛に選んだ。その時、包囲網は直径5kmまで狭まっており、シュテンマーマンが指揮する余地を奪うことになった。一度は包囲からの解放につながると思われたシャンデロフカは、後世、「地獄の門」として知られることとなる。ソビエト赤軍は包囲した部隊の周辺に激しい砲撃とロケット砲の攻撃を注ぎこんだ。戦闘爆撃機によるソビエト赤色空軍の攻撃はごく稀にドイツ空軍による妨害を受けたが、結局、爆撃と地上掃射を行った。ソビエト赤色空軍による夜間爆撃の焼夷弾よって燃え盛る暗がり、至るところに存在する破壊・放棄された車両と負傷者、泥濘と化した道のために統制を失った部隊について、様々な部隊の戦闘日誌に記載されている。ウクライナ民間人たちは両軍によって拘束された。1944年2月16日、マンシュタインはヒトラーの裁可を得ることなく脱走を許可するためにシュテンマーマンに無線連絡を入れたが、それはシンプルなものであった。 「合い言葉『自由』。目標、リシャンカ(Lysyanka)、23時」 不本意ではあったが、シュテンマーマンとリープはシャンデロフカにおいて歩行困難となった負傷兵1,450名に軍医と衛生兵を付き添いにして置き去りにすることを決定した。その後、部隊は3つの主要攻撃部隊を編成した。第112歩兵師団を中心としたグループが北方、第5SS装甲師団が南方、第72歩兵師団は梯団を編成して攻撃力を高めた第105擲弾兵連隊を付属させた上で中央と、それぞれ担当が決められた上で、夕方までに集合し始めた。「23時、第105擲弾兵連隊 -並んだ2個大隊 – は静かに小銃に銃剣を着剣して前進を開始した。30分後、部隊は最初のソビエト赤軍第1防衛線を突破、その後すぐに第2防衛線も突破した。」ケストナーが指揮する第105擲弾兵連隊は、第III装甲軍団所属の第1装甲師団のパンター[要曖昧さ回避]の前進基地へ用心深く接近し、負傷兵と重火器を運びながら友軍の防衛線へ到着した。しかし馬が牽引する補給縦列はソビエト赤軍の砲撃によって失われていた。第105擲弾兵連隊は6時半、リシャンカに到着した。包囲網の反対側の戦線では、シュテンマーマン率いる後衛部隊がとどまり、最初の脱出の成功を確実なものとした。 左翼の攻撃部隊においては、偵察部隊が厳しい情報を持ち帰っていた。地形的特徴を持つ239高地はソビエト第5親衛戦車軍のT-34によって占領された。包囲網内部から239高地を占領するため激しい攻撃を行ったが、主導権はソビエト赤軍内に残り、高地を避けて移動しなければならなかった。「ますます増強される239高地によって支配される峰の頂上にある堅固なソビエト戦車による防衛線に直面した」ため、ドイツ軍の脱出路はGniloy Tikich川がある南方面へ向きを変えたが、撤退方面を誤った部隊の大半は惨憺たる結末を迎えた。夜が明けると、ドイツ軍の脱出作戦は崩壊し始めていた。極少数の装甲車両とその他の大型装備は、雪が解けやすく滑りやすい山を登ることができず、「最終局面で最後の弾を発射した後」破壊、もしくは遺棄された。 この頃、ソビエト赤軍のコーネフはドイツ軍が包囲網から脱出していると判断、これに激怒して「『ヒトラーの追随者』もしくは『ファシスト』どもを完全に絶滅させる」というスターリンへの約束を履行することを決意した。この段階でソビエト赤軍情報部はドイツ第III装甲軍団の装甲兵力を過大評価していたため、コーネフはこれに従い、大軍をもって進撃した。この時、第20戦車軍団は新型重戦車IS-2が配備された旅団を、コルスンの戦場へ送り込んだ。コーネフは、利用できる全ての装甲部隊と砲兵部隊に、撤退するドイツ軍部隊を攻撃しこれらを孤立化させた後、個々にそれらを殲滅するよう命令した 。ドイツ軍を阻止しようとしたソビエト第206狙撃兵師団と第5親衛空挺師団はドイツ軍の攻撃により殲滅され、ソビエト赤軍の戦車は歩兵の支援が無かったため、遠方からドイツ軍の脱出を行う部隊へ砲撃を行っていた。そしてT-34を装備した部隊は、対戦車兵器を所有していないと判断した無防備な支援部隊、師団本部、落伍兵、赤十字をつけて負傷者を伴っていた医療部隊らを激しく攻撃した。 混成されたドイツ軍部隊の大部分は、2月17日正午までに雪解けの水で濁流と化していたGniloy Tikich川に到着した。第1装甲師団が橋を確保し、さらに工兵がもう一つ架橋していたが、混乱した将兵は暴れまわるT-34から逃れるために川に飛び込むことが最善だと判断した。本隊が南の橋頭堡から離れていたため、最後の戦車、トラックそして荷馬車は凍った川へ投入され、木で間に合わせの橋を作るために木々が切り倒されるなど、彼らはできる限りの努力を行った。しかし数百人の消耗しきった将兵が溺れ、馬や兵器の残骸が流されることとなった。多くの人々はショックや低体温で死亡することとなり、将兵の中にはベルトとハーネスで作られた川を渡る綱を伝って渡河した者もいた。また、ソビエト赤軍の火砲とT-34による砲撃の中、負傷兵を対岸に渡すため、厚板や残骸でいかだを作成する者もいた。リープは午後の間、川岸で指揮を執った後、彼の馬と共にGniloy Tikich川を渡った。第5SS装甲師団師団長、ヘルベルト・オットー・ギレは泳げる者と泳げない者を交互にして川に人間の鎖を形成して川を渡ろうとしたが、ある者の手が滑ることにより鎖が千切れると多くの将兵が溺死することとなった。また、このとき、ソビエト将兵捕虜数百名とロシア人女性による補助部隊、赤軍の報復を恐れたウクライナ民間人たちも凍りついた川を渡った。脱走の最終段階に、ドイツ工兵はさらにいくつかの橋の架橋を行い、ドイツ第57歩兵師団、第59歩兵師団の後衛部隊は馬が引く20台の橇に乗せた600名の負傷兵と共に「乾いた」川を渡河できた。 非常に多くの将兵がリシャンカに到着したが、それはシュテンマーマン集団が後衛を勤め、第III装甲軍団の努力によるものであった。第III装甲軍団の最先端は指揮官のフランツ・ベーケ中佐に因んで名づけられた重戦車連隊ベーケ(Schweres Panzer Regiment Bäke)が担当した。部隊にはティーガー戦車、パンター戦車が配属され、さらに特別な架橋技術を備えた工兵大隊が所属していた。 2月19日までに第III装甲軍団は、これ以上シュテンマーマン集団の兵士を救い出すことは不可能と判断し、リシャンカ突出部からの撤退を開始した。 シュテンマーマンは後衛戦で戦死、リープは戦争を生き残り、1981年に死去した。第2ウクライナ方面軍の司令官、イワン・コーネフはこの勝利により、元帥に昇格した。
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