馬王堆漢墓 副葬品

馬王堆漢墓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/30 13:01 UTC 版)

副葬品

合わせて3,000点にのぼる副葬品の多くは辺箱に収められていた[32]。種類としては漆器織物土器竹器木器・木俑・楽器武器・農畜産品・食品薬草竹簡印章・帛書などがある[29]

これらは当時の手工業技術はもとより、文化、社会生活を知る上で極めて貴重な実物史料であり[8]歴史学考古学文学哲学神話学音楽医学農学天文学など、様々な分野の研究に資するものである[10]

1号墓の帛画

帛画

1号墓、3号墓の内棺の蓋板には、形・内容ともほぼ同様の帛画が掛けられていた[33]。いずれもT字型の一重(ひとえ)の地で作られており[7]、上縁に竹棒が通され[34]、吊り下げるための絹の掛け紐が付き[34][35]、T字の4箇所の下端四隅には房がつけられていた[35]。当時の葬送儀礼に欠かせなかった旌幡[注 11]であろう[35]。1号墓の帛画は長さ205センチメートル、上端部の幅は95センチメートルあり[36]、完全な保存状態で出土した[35]。3号墓の帛画は長さ233センチメートルである[33]

帛画は、緑色[34]に染めた絹の上に、主に鉱物性の顔料[34]を用いて色彩豊かに[35]描かれている。絵の主題にはの地方色が色濃く反映され[37]、当時の楚の幻想的・屈原的な雰囲気を偲ばせる[38]。この帛画は中国古代絵画の最高傑作と言い得るものである[10][36]

帛画の上部は天上界を表す[33][7][35]。まず、上端中央に人身蛇尾(上半身が人間、下半身がとぐろを巻いた蛇)の神人が座している。ひとり神で蛇身部分が赤いことから、『山海経』の燭竜と推測される[39][注 12]。神人の右側、赤い太陽の中には黒い鳥が、左側の三日月の中にはひき蛙が描かれている。これらは『淮南子』の「日中に踆烏(しゅんう)[注 13]有り、而して月中に蟾蜍(せんじょ)[注 14]有り」をその通りに描いている[39]

太陽の下にいるの傍らには8個の赤い円が描かれている。これは羿が9個の太陽を射落とした伝説に関係すると考えられる[39]。従って竜と絡み合う樹木は『山海経』にある扶桑であろう[39][注 15]。 三日月の下にいる竜の傍らには、1号墓の帛画では飛翔する女性が、3号墓の帛画では飛翔する上半身裸の男性が見られ、被葬者の昇仙図となっている[33][7]

竜の下の天門(天上界と現世の境)には2人の役人[10]が向かい合って座り、その後ろの柱にはがしがみついている。これは『楚辞』の「招魂」[注 16]を思わせる[40]

現世界に入り、天門直下の華蓋の上には一対の鳳凰が、下には人面の奇怪な鳥が飛んでいる[40]。その下の左右には竜が描かれ、下の方でを貫き交竜になっている[41][35]。その竜に挟まれる形で被葬者の出行の場面が描かれる[33]。1号墓の帛画では、曲裙の長衣を着た老婦人(被葬者)が杖をついて立ち、後ろには女性3人(腰元であろう[40])が従い、前に男性2人(天からの迎えの使者か[40])が跪いている。3号墓の帛画では、劉氏冠[注 17]と朱の長衣をまとい、腰に帯剣した男性が袖に手を入れて歩み、周囲に9人の人物が従っている[33]

その下にある宴の図は、被葬者を見送り、霊魂を導き昇天させる意味を持つ[7]。あるいは被葬者が死後の世界で食事を楽しむ様子を描いている[42][注 18]。料理や酒をふんだんに供えた[10]その供宴の席を、2匹の大魚(海を象徴する奇獣[43])の上に立った裸身の力士が支え上げている。彼は『楚辞』の「招魂」にある土伯(幽都(冥界)の怪物)かもしれない[40][33]。彼の周囲には霊亀、鴟鴞などの霊鳥が描かれている[33]。これら璧から下の部分[41]は地下界を表す[33][10]

帛画の名称は、議論はあるものの[33]、遣策(副葬品リスト)にある「非衣」と考えられる[7][36]。これは、衣の形をしているが衣ではない旌幡、といった意味合いだが[10]、「非」は漢代には音通で「飛」と解することもでき、「非衣」即ち「飛衣」として霊魂の飛翔、昇天を願った名称であろう[7]。帛画全体の主題も被葬者の「引魂昇天」と言えるものである[35]

3号墓の内棺の左右側板[注 19]ではそれぞれ別の帛画も見つかっている[33][44][23]。右側板(西壁)の帛画は212×94センチメートルの儀杖図で[33][44][23]、比較的保存状態が良い[44]。画面左上に被葬者らしき男性が描かれ、劉氏冠を戴き、長袍を纏い、腰に宝剣を帯びている[23]。後ろには彼にをさしかける従者と属官が20人ほど従う[23]。彼らは右側の5段の土壇へ向かっており、周囲の車馬隊、騎従隊、楽隊は全て被葬者に顔を向けている[23]。これはおそらく被葬者が生前に挙行した盛大な検閲儀式を描いており[23]、その車馬儀杖の場面には合わせて百人余りの人物・数百頭の馬・数十輌の車が描かれている[33][44]。左側板(東壁)の帛画はかなり傷んでおり[33][44][23]全体像は不明だが[23]、2片の残片[33]によると家屋・車馬・奔馬・船を漕ぐ女性の場面などを描き[23][33]、右側板のものとよく似ており[33]、いずれも被葬者の生前の豪奢な生活を描いていると思われる[33][44][23]

帛書

副葬品のうちでも特に価値が高いと考えられている[13]。3号墓の大きな長方形の漆匣(はこ)から2種が発見された[45]。ひとつは48センチメートル幅[33][46](一部はその半分の幅[46])の帛で、約10センチメートル幅で端から長方形に折り畳まれ、24センチメートル程の高さに積み重なっていた[46]。もうひとつは24センチメートル幅の帛で、幅2-3センチメートルの木片に巻かれていた[33][46]。前者は折り目が切れてしまっており、後者は帛どうしが固着して展開できず、傷みが甚だしかった[33][46]。いずれも修復と整理には細心の注意が払われた[46]

竹簡・木牘

1号墓からは312枚の竹簡が出土した[47]。簡の長さは27.6センチメートルで、各簡に2-25字が墨書され、上下を細い麻紐で交差させて編み巻物状にしていたが、出土時には散乱していた[33]。文字の多くは識別可能である[33]。3号墓からは410枚[35]の遣策竹簡、200枚の医書竹簡(うち10枚は木簡)、7枚の木牘(木札)が出土した。竹簡の長さ、形式、書体は1号墓のものと全く同じである[33]

1号墓の絹織物(花文)
1号墓の絹織物(雲文)

衣類・織物

1号墓の竹行李[48]から見つかった衣類織物類は、年代の古さ・数の多さ・種類の豊富さで過去に比類の無いものである[49][48]。保存状態の良いものが100点、うち完全なものが58点ある[49]。これらは漢代の高度に発達した紡績技術を示すものである[49]

多くは製品であり、一部は製品であった[48]。絹製品は全て家蚕の糸から織られ[49]、麻製品は苧麻(ちょま)や大麻で織られていた[49]。絹製品の織り方は、平織りの絹と、白糸で文様を織り出したと羅綺[注 20]、色糸で織った錦、に分類され[49]、大部分は染色・摺絵・刺繍などの加工がなされていた[49]

製品の種類には以下のようなものがあった。

  • 衣類 - 無地の絹衣[50]、朱紅色の[50]羅綺綿袍(裏地のある綿入れ(きぬわた)の長衣)、夾袍(あわせの長衣)、単衣(ひとえの服)、単裙(スカート状の裳)、足袋履物手袋[49][48]
  • 日用品 - 風呂敷、各種の袋(穀物薬草楽器などを入れるもの)、器物にかける覆い、など[49][48]
  • 幅が1幅の絹織物46巻[49] - 彩色紋様が描かれるか印染された絹布、長寿紋や乗雲紋が刺繍された黄色絹布、方棋紋が刺繍された絹布など[50]。いずれも洗練されたデザインと、色彩の鮮やかさに優れている[50]

1号墓の副葬品で特に注目されるものを以下に挙げる。

  • 絨圏錦 -衣服の縁飾りなどに使われた[44]フランネル[51](絨類の織物)。立体感のある文様を持つ、一種独特な輪奈織風の錦織で[49][51][44]、多色の縦糸と単色の横糸で織り出されている[51][49]。これは、縦糸を巻く軸(おまき)を2本持つ織機[44]、特殊な混ぜ織り技法によって作られている[49]。副葬された織物類のうちでも最も珍貴なものであり[49]、また現在知られる限りで最古のフランネルである[51][49]
  • 素紗襌衣 - 白い紗(うすぎぬ)のひとえ平紋の織物[32]。長さ128センチメートル、重さ49グラムで、まさにの羽のように軽く、薄く、透明である[44][32]。これは当時の製糸紡績技術の高度さを象徴するものであり[44]、分析の結果、その品質は現代のジョーゼットクレープに劣らないものだった[51]
  • 印花敷彩紗 - 文様の型押しと手書きの染付けを組み合わせて模様をつけた紗製品[32][44]。これは珍しい絹織物で[32]、当時の極めて高度な絵付け技術を示すものである[44]

3号墓からも絹織物が多く出土し、保存状態は劣るものの、1号墓には見られない文様の錦も発見された[33]。また漆纚紗帽(漆塗りの薄絹の帽子)は特に珍しいものである[33]

1号墓の漆器類

漆器

漆器類は副葬品のうちで最も品数が多い[29]。(これは前漢前期の長沙漢墓で一般に見られる傾向である[28][48]。)保存状態の良い漆器にはまだ充分に光沢が残っていた[50]

大型の漆器は木胎だが、耳杯[注 21]・盤・巵[注 22]・小奩[注 23]などの小型の漆器は夾紵胎[注 24]である[29]。装飾手法は漆絵・粉彩・錐劃(針刻ともいい、漢初に初めて現れた技法)の3種類がみられる[29]。文様は各種の雲気文・龍文・鳳凰文・雲龍文・雲鳳文・写生動物文・草葉文などがみられる[29]。器形は鼎・盉[注 25]・壺・鐘・方彝・匕[注 26]・巵・勺・耳杯・耳杯盉・盂[注 27]・案[注 28]・匜[注 29]・食奩・撮箕・几・屏風・博具などがみられる[29]。一部は銅製の覆輪[注 30]や螺鈿で装飾されている[29]。多くは隷書体で「軑侯家」、あるいは「君幸酒」「君幸食」と酒食を勧める言葉[48]、あるいは「石」「四斗」「二斗」「一斗」「九升」〜「一升」と容量が記されている[29]。「成市草」「成市飽」「南郷□」[注 31]など工房名が木胎に烙印されているものもあり[29]、一部は成都の官府の工房で製作されたことが分かる[45]

土器

土器には泥質灰陶(・盉・壺・鐘・方彝・瓿[注 32]・豆・鐎壺[注 33]・熏炉・釜)と、各種の硬陶罐がある[29]。前者は彩絵がなされたり、表面に箔状のものが貼りこまれ、器内に液体状のものを入れた痕跡がある[29]。後者は肩部に印文があり、器内に食品を入れ、口を草と泥で塞き「軑侯家丞」の封泥で封じ、頸部に食品名を隷書体で記した竹札が下がっていた[29]

竹行李

竹行李(竹笥)には多くの絹織物・農畜産品・食品・薬草などが納められており、封泥匣(長方形の板中央のくぼみに封泥を施したもの)と木札がつけられていた[29]。封泥匣には「軑侯家丞」の封泥があり、木札には隷書体で中の衣類・食品などが記されていた[29]

食物

1号墓からは、容器に入った多くの食物遺物と、葬送儀礼用の献立を記した竹簡(遣策)が見つかっている[52]。これらは太守宰相階級の葬礼用という点で庶民食生活を必ずしも反映はしていないが、前2世紀華南における食物事情を具体的に示す貴重な史料である[52][48]

漆器・土器(陶器)・竹行李からは以下のような食物が見つかった。

  • 漆器 - 鼎から蓮根の輪切り、盆からは穀物の粉を練って焼いた状の食物、小盤からはの肉や麺類、奩からは餅状の食物[52]
  • 土器 - 陶鼎からは、陶盆からは粉を捏ねて焼いた食物、陶罐からは浜納豆・山桃・麺類・牛骨・鹿骨・魚骨など[52]
  • 竹行李 - 中から多くの動物の骨が見つかり、肉類が納められていたと見られる[52]。具体的には鹿・鳥卵であり、それらが炙(せき、串焼き)・熬(ごう、火で乾かした肉、煎った肉)・脯(ほ、細かく裂いた干し肉)・臘(せき、小動物を丸ごと干し肉にしたもの)などで調理されていたことが、竹行李の木札と竹簡の記載内容からうかがえる[52]
  • ほか、肉類で黄牛綿羊[48]、魚で・鯽・など[48]、竹夾(すのこ)に挟まれた梅干[36]が見られた。

食物遺物には科学的鑑定が行なわれ[53]、次のような知見が得られた。

竹簡には次のような記載が見られた。

  • 献立 - 葬送儀礼用の料理名と思われる[53]。以下、一部を挙げる。「調味料や野菜を入れない牛頭のスープ」「鹿の肉と里芋の米入りスープ」「の葉入りの子犬のスープ」「細かく裂いた牛の干し肉」「豚肉の串焼き」「飴玉」「浜納豆」「蜂蜜で粉を練ったビスケット」「米のご飯」「粟のご飯」「麦のご飯」[53]
  • 調味料 - 水飴蜂蜜[53]
  • - 濁酒、甘酒、清酒など[53]

楽器

出土した楽器はいずれも良好な保存状態にあり、中国の古代音楽研究の上で重要な史料となった[49]

1号墓からは、25弦の(しつ、大きな)・22管の竽(う、大型の)・1組の竽律(竽を調音するための竹笛)が出土した[49][44][注 34]。竽律は12本の竹笛から構成され、その各々に漢初の十二律の名称が記されており[45][51]音楽史上、特記すべき発見である[51]。3号墓からは瑟・竽・七弦琴・六孔の(しょう、尺八に似た縦笛)が出土した[49][45]。竽・竽律・琴・簫は漢初の楽器としては初めて発見されたものである[49]

木俑

俑(よう、殉死者の代わりとして副葬された人形)は全て木製であり[48]、合わせて260 個余り[49]、うち1号墓からは男女合わせて162個が見つかった[48]。1号墓の木俑について見ると、まず大きさで10-84.7センチメートルのバリエーションがあった[48]。また絹製[54]の袍(足元まである長衣)や冠をつけた着衣俑と、本体に直接着衣を描いた彩絵俑の二種があった[49][48]。また姿勢も立俑と座俑の二種があった[48]。かたどった身分や職には、冠人(宦官)、女侍、舞人、歌人、楽人などがあり[48]、当時の階級制度の一面を反映していると考えられる[49]。第三棺と内棺の隙間、内棺の蓋と帛画の間にあった36個の小さな木俑はの木から作られており、これは辟邪(魔除け)のためと思われる[48][49]

泥製冥銭

泥銭[注 35](泥半両冥銭・泥郢称冥銭)が大量に見つかっている[29]。泥製冥銭が大量に副葬されるのは、長沙の前漢墓の大きな特徴のひとつである[28]。泥銭には半両・郢称の二種があった。半両の泥銭は漢初の八銖半両銭・四銖半両銭を模し[28][注 36]、郢称の泥銭は黄金貨幣を模し(さらには簡略化し)たもので、これは当時の長沙一帯で依然として楚の貨幣が流通していた物証である[28][55]

武器

3号墓より・弩機・・矢筒などの武器が出ているが、剣柄とのみが青銅製で、他は牛角を用いた明器である[49]

青銅器

青銅器は非常に少なく、これは漢初の不足によるものと考えられる[49]。上述の武器を除けば、銅鏡・帯鉤[注 37]など数点があるに過ぎない[49]

貴金属

2号墓より帯鉤が1点見つかったのみである[49]

日用品

日用品には枕・枕巾・几巾・香袋・楽器の袋・物入袋・その他の器物に掛ける覆いなどがある[49]

化粧用品

1号墓の2個の漆奩(しつれん、化粧箱)、およびその中の小箱から、被葬者が生前に使っていたと思われる以下の化粧用品が見つかった[48]

  • 化粧品 - 白粉・臙脂(べに)・油状の化粧品と思われるもの
  • 化粧用具 - コンパクト・化髪(かもじ)・銅鏡、笄(けい、かんざし)・笰(ふつ、かんざし)・鑷(じょう、毛抜き)・環頭刀子など
  • 絹製品 - 手袋・絹(きぬわたの)帽子・組帯・鏡袋など

注釈

  1. ^ 由来の異説として、墳丘が東西2つ並んだ姿からまず「馬鞍堆」と呼ばれ、音が「馬王堆」に変化したというものがある。(松丸ら (2003) p.471)ほか被葬者の異説として、劉発が母の程姫と生母の唐姫を埋葬した「双女塚」とするものもあった。(朱 (2006) p.189)
  2. ^ 当時。現在は中国社会科学院へ移管。
  3. ^ へんそう。副葬品を納める箱構造。
  4. ^ 小倉 (2003) p.145 では湖南省西方産の材とする。
  5. ^ 2号墓は棺槨が既に朽ちていたが、残っていた4枚の底板から一槨二棺と考えられる。(中国社会科学院 (1988) p.399)
  6. ^ きんい。遺体を覆う長衣。
  7. ^ 松丸ら (2003) p.457 は第三棺も黒漆塗りとする。
  8. ^ 貼り付けた羽毛で文様を表した絹。
  9. ^ 2号墓、3号墓の白膏泥層は比較的薄く、厚さも不均等だったために充分な密封がなされず、出土物の保全状態も劣ることになった。(朱 (2006) p.191)
  10. ^ 松丸ら (2003) p.461 は、外棺・中棺は白木作りとする。
  11. ^ 被葬者の名前などを記した旗。
  12. ^ トルファンで発掘された墓の棺を覆っていた帛画には、人身蛇尾のふたり神(伏羲女媧)が描かれている。(陳 (1981) p.92)
  13. ^ 踆烏は本来3本足のはずだが、帛画の鳥は2本足のようである。(陳 (1981) p.92)
  14. ^ このひき蛙は常娥(嫦娥、姮娥)の変身である。(陳 (1981) p.92)
  15. ^ 10個の太陽のうち1個は扶桑の上に、残り9個は樹下にあるとされるため、帛画の太陽は1個足りないことになる。(陳 (1981) p.92)
  16. ^ 楚の地に伝わる魂呼(たまよばい)の歌で、天の九重の関門にいる虎豹が、天に昇ろうとする下界の人間を噛み殺すと歌っている。「魂よ帰り来れ。君、天に昇る無れ。虎豹、九関、下人を啄害す。」
  17. ^ 劉邦が好んで使ったとされる竹皮の冠。
  18. ^ 魂魄は死後に分離し、魂は天上世界へ昇り、魄は地下世界の遺体に宿る。
  19. ^ 松丸ら (2003) p.461 は槨室の東西の壁とする。
  20. ^ 薄いあやぎぬ。日本で言う羅紗とは別物。(夏 (1984) p.98)
  21. ^ じはい。楕円形の左右の長辺に耳状の把手がある浅い杯形の食器。(『広辞苑』第5版)
  22. ^ さかずき。巵は四升入りの大きなものを指す。(『新選漢和辞典』第7版)
  23. ^ くしげ。櫛箱。
  24. ^ いわゆる乾漆。麻や絹を重ねて貼り合わせ素地を作ったもの。
  25. ^ か。注酒器。
  26. ^ ひ。匙。
  27. ^ う。大型で水平のご飯茶碗であり、側面なかほどに折れ上がった耳がつく。一説に盛水器、食器。(三省堂『新明解漢和辞典』)
  28. ^ あん。机。
  29. ^ い。把手のついた手洗い用の水を入れる容器。手に注いで使う。(『新選漢和辞典』第7版)
  30. ^ ふくりん。器物のへりを金属の類で覆い、飾ったもの。(『新選漢和辞典』第7版)
  31. ^ もしくは「南倻飽」
  32. ^ ふ。塩辛ひしおなどを入れる小さな甕(『新選漢和辞典』第7版)
  33. ^ 3本足の壺。
  34. ^ 黄ら (1991) p.220 では他にを挙げる。磬(けい)は石もしくは製の板であり、吊り下げたものを打って鳴らす。筑(ちく)は竹でうつ弦楽器の一種。(いずれも三省堂『新明解漢和辞典』)
  35. ^ 被葬者が冥界でも金に困らぬよう、泥で貨幣をかたどり焼いたもの。(陳 (1981) p.83)
  36. ^ 八銖半両銭は呂后時代、四銖半両銭は文帝5年(前175年)に鋳造された、四角い穴の開いた円形貨幣。いずれも武帝元狩4年(前119年)の五銖銭の鋳造によって廃止された。従って埋葬年がそれより下ることはない。(陳 (1981) p.83)
  37. ^ たいこう。帯の留め金。
  38. ^ 社会科学院 (1988) p.403 は篆書・隷書の2種、松丸ら (2003) p.462 は篆書・隷書・秦隷の3種、黄ら (2003) p.220 は篆書・隷書・草書の3種とする。
  39. ^ 中国社会科学院 (1988) p.403 では、『黄帝書』と『老子』乙本で1篇、『刑徳』甲・乙種で1篇、合計26篇とする。
  40. ^ 天文・暦・占いなどの術
  41. ^ 朱 (2006) p.197 は方技とする。
  42. ^ 松丸ら (2003) p.462 はこの他に、土坑・房屋・廟宇などを示した『城邑和園寝図』を挙げる。
  43. ^ 木金火土水の五星の天文現象に伴う事象を占った言葉
  44. ^ 朱 (2006) p.205 は103種、黄ら (2003) p.221 は108種とする。
  45. ^ 朱 (2006) p.206 は『脈経』、松丸ら (2003) p.464 は『脈法』とする。
  46. ^ 松丸ら (2003) p.464 は医書簡を『合陰陽』(木簡)・『天下至道談』(竹簡)・『雑禁方』(木簡)・『十問』(竹簡)の4篇に分類している。

出典

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