馬王堆漢墓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/07 17:59 UTC 版)
被葬者
各墓の被葬者は、前漢初期の長沙国で丞相をつとめ初代軑侯となった利蒼(2号墓)、その妻(1号墓)、息子(3号墓)である[16][26]。
被葬者らを特定する上で手がかりになったのは、3基の墓の位置関係[3]、副葬品である竹行李や土器の罐などの器物につけられた「軑侯家丞」の封泥[3][13]、漆器に書かれた「軑侯家」の文字[13]、出土した女性の被葬者[26]、2号墓から出土した「利蒼」「軑侯之印」「長沙丞相」と刻まれた印章[3][13]、3号墓から出土した木牘から被葬者の死亡年が前168年と考えられること[26]、軑侯の封建を記した『史記』巻19「恵帝間侯者年表」および『漢書』巻16「高恵高后文功臣表」の記述[26]、などである。これらにより、各墓の被葬者は確実に証明された[13]。
1号墓
被葬者は利蒼の妻、辛追。
埋葬方式は仰臥伸展葬であり[29]、棺内を満たす約 80 リットルの無色透明の液体に遺体は浸っていた[30]。(この液体は、出土後ほどなくチョコレート色に変色した[30]。)
遺体は2枚の肌着[29][7]を含む18枚の絹や麻[7][30]の経帷子を着、9本の帯で縛ったあと[30]、2枚の真綿[30]の衾被[7][注 6]がかけられ、合計20枚の衣類に包まれていた[29][7][30]。顔には濃い小豆色の錦のハンカチがかけられ、両腕と両足は絹の帯で縛られ、青絹の靴を履いていた[30]。被葬者の開いた口からは舌が突き出て、その顔つきはいまだ生気が残っているかのようだった[30]。
棺は四重で、いずれも梓の板を使い[24]、棺槨と同様に掛け継ぎ、ほぞとほぞ穴、ほぞ釘などの接合方法で組み立てられた[24]。大きさ(長さ×幅×高さ)は外棺が2.95×1.5×1.44メートル[24]、内棺が2.02×0.69×0.63メートルであり[26]、4つの棺が隙間なく重なり合うよう作られていた[18]。四棺とも内壁は朱漆が塗られているが[24]、外壁の装飾が次のように異なる。
- 外棺は黒漆塗りで、無地だった[20][24]。
- 第二棺は黒漆塗の上に複雑な雲気紋と多くの怪神・禽獣の彩色画が描かれていた[20][24]。
- 第三棺は朱漆塗[注 7]の上に龍・虎・朱雀・仙人などを彩色して配した瑞祥図が描かれていた[20][24]。
- 遺体を収める内棺は、黒漆塗の上に装飾が施されていた。すなわち、棺に蓋をしたのち2本の絹の帯を横に渡し[24]、棺全体を覆うように絨圏錦(フランネル)で縁取りした羽毛貼花絹[注 8]が貼り付けられ[24][20]、錦のように飾り立てられていた[18]。そして蓋板を一幅の帛画が覆っていた[24][20][26]。
副葬品は全て辺箱の中に置かれており[24]、1,400点を数えた[9]。「妾辛追」と読むべき綬つきの印章が見つかっており、被葬者は利蒼の妻、姓名は辛追、と判断できる[5][10]。
医学的所見
病理解剖の結果、遺体は外形のみならず内臓諸器官、さらには繊維性結合組織、筋肉組織、軟骨、血管[11]など微細組織[8]に至るまで、生前の状態に近い良好な保存状態が保たれていた[30][8][7][29]。
女性の年齢は50歳前後[7][5][29][11]。身長154.5センチメートル[9][11]、体重34.3キログラム[11]、血液型A型[9]、出産経験あり[30]。皮膚表面は褐黄色で(現在は黒色に変色)[11]、皮膚組織はまだ湿潤[11]かつ弾力性を残していた[6][9][11]。頭髪はまばらだが白髪は無く[11]、光沢が残り[30]、少し力を入れて引いても抜けなかった[30][11]。眼球がやや突出し、右鼓膜に穴が開いていた他は感覚器に異常は見られなかった[11]。歯は16本残っていた[11]。四肢の関節は動かすことができ、骨格は末端までほぼ完全であり、脳は 1/3 に萎縮していた[11]。皮下脂肪が各所に見られ、小太りだったと思われる[11]。
被葬者が生前多くの疾病に罹っていたことも判明した[29][8]。具体的には、冠状動脈性の心臓病[8](心筋梗塞)、多発性胆石症[8][27]、全身性の動脈粥状硬化症[8][11]、血吸虫病[8]など各種の寄生虫病[11][27]、椎間板ヘルニア[27]、胆嚢の先天的奇形[11]、右腕骨折[11]が確認された。
胃から真桑瓜の種が多数(138粒)出てきたため[9][30][11]、被葬者が死亡したのは夏[9]、食後2-3時間後[11]と考えられる。被葬者は栄養状態が良く、長期に病臥した様子も見られないことから[11]、胆石症の痛みが冠状動脈性心臓障害の発作を誘発し急死した、という経過が最も考えられる[29][11]。ほか、仙丹の服用による水銀中毒・鉛中毒・砒素中毒が死因になった可能性も指摘されている[11]。
湿屍
被葬者の遺体は「湿屍」と呼ばれる特異な保存状態にあった[18]。2100年以上という年代の古さと、その良好な保存状態は、世界の死体保存例のうちでも極めて稀なものであり[8][29]、医学的にも高い研究価値を持つ[7]。
遺体が良好に保存された要因として、以下の点が挙げられている。
- 遺体が地中深く埋葬されていた[29][27]。(盗掘坑があったが、墓室に達していなかった[9]。)
- 墓室が堅固に構築され、数層の棺槨によって保護されていた[29]
- 棺槨が木炭層と白膏泥層に包まれ、密封されていた[29]。1号墓に穴をあけた際、ガスの噴出(火洞子、フォトンツ)が起こっており、これは確かに内部が密封されていた証である[27][注 9]。
- 内部の密閉によって、低温と酸素欠乏状態が維持された[29]。
- 被葬者は皮下脂肪が男性より多く、脂肪が発酵分解して発生したガスが墓室に充満した。結果として温度が一定して細菌の発生を防いだ[27]。
- 漆、木炭、白膏泥、辰砂(いわゆる朱)、香料が防腐に役立った[27]。
- 遺体が浸っていた液体には辰砂が含まれており、防腐の役割を果たした[9]。
2号墓
被葬者は初代軑侯、利蒼。
盗掘により、遺骨は散乱した状態だった[29]。副葬品は漆器、武器、陶器など200点がまだ残されており[11]、その中に「利蒼」と刻まれた玉材私印[26]が1個、「軑侯之印」「長沙丞相」と刻まれた鍍金亀鈕銅印[11]が各1個ずつ、計3個の印章が見つかり、これが被葬者を特定する決定的証拠になった[4][16]。
『史記』および『漢書』によると利蒼は前186年(呂后2年)に没しており、埋葬はこの年あるいは1-2年後とみられる[13]。
3号墓
被葬者は利蒼夫妻の息子[26]で二代軑侯、利豨。あるいはその兄弟。
遺体は腐敗して骨格だけが残り、科学的調査から30歳前後の男性と鑑定された[29][12][23]。棺は三重で、外棺と中棺はいずれも外側が褐色の漆塗り、内側が朱の漆塗だった[20][注 10]。内棺は内外とも漆塗で、刺繍と絨圏錦の縁取りを施した絹で装飾され、また蓋板は一幅の帛画が覆い、棺内の両側板にもそれぞれ各一枚の帛画が掛けられていた[20]。副葬品は全て辺箱の中に置かれており[24]、漆器316点、木俑106個、竹行李53個、遣策など[23]、1,000点を数えた[12]。
副葬されていた木牘から、埋葬年は前168年と見られる[31][16]。文献では利豨は前165年に没したことになっているため、被葬者は氏名不詳の兄弟と考えられてきたが[12]、近年、利豨の印が出土したため利豨とも考えられる[31]。
注釈
- ^ 由来の異説として、墳丘が東西2つ並んだ姿からまず「馬鞍堆」と呼ばれ、音が「馬王堆」に変化したというものがある。(松丸ら (2003) p.471)ほか被葬者の異説として、劉発が母の程姫と生母の唐姫を埋葬した「双女塚」とするものもあった。(朱 (2006) p.189)
- ^ 当時。現在は中国社会科学院へ移管。
- ^ へんそう。副葬品を納める箱構造。
- ^ 小倉 (2003) p.145 では湖南省西方産の杉材とする。
- ^ 2号墓は棺槨が既に朽ちていたが、残っていた4枚の底板から一槨二棺と考えられる。(中国社会科学院 (1988) p.399)
- ^ きんい。遺体を覆う長衣。
- ^ 松丸ら (2003) p.457 は第三棺も黒漆塗りとする。
- ^ 貼り付けた羽毛で文様を表した絹。
- ^ 2号墓、3号墓の白膏泥層は比較的薄く、厚さも不均等だったために充分な密封がなされず、出土物の保全状態も劣ることになった。(朱 (2006) p.191)
- ^ 松丸ら (2003) p.461 は、外棺・中棺は白木作りとする。
- ^ 被葬者の名前などを記した旗。
- ^ トルファンで発掘された墓の棺を覆っていた帛画には、人身蛇尾のふたり神(伏羲と女媧)が描かれている。(陳 (1981) p.92)
- ^ 踆烏は本来3本足のはずだが、帛画の鳥は2本足のようである。(陳 (1981) p.92)
- ^ このひき蛙は常娥(嫦娥、姮娥)の変身である。(陳 (1981) p.92)
- ^ 10個の太陽のうち1個は扶桑の上に、残り9個は樹下にあるとされるため、帛画の太陽は1個足りないことになる。(陳 (1981) p.92)
- ^ 楚の地に伝わる魂呼(たまよばい)の歌で、天の九重の関門にいる虎豹が、天に昇ろうとする下界の人間を噛み殺すと歌っている。「魂よ帰り来れ。君、天に昇る無れ。虎豹、九関、下人を啄害す。」
- ^ 劉邦が好んで使ったとされる竹皮の冠。
- ^ 魂魄は死後に分離し、魂は天上世界へ昇り、魄は地下世界の遺体に宿る。
- ^ 松丸ら (2003) p.461 は槨室の東西の壁とする。
- ^ 薄いあやぎぬ。日本で言う羅紗とは別物。(夏 (1984) p.98)
- ^ じはい。楕円形の左右の長辺に耳状の把手がある浅い杯形の食器。(『広辞苑』第5版)
- ^ さかずき。巵は四升入りの大きなものを指す。(『新選漢和辞典』第7版)
- ^ くしげ。櫛箱。
- ^ いわゆる乾漆。麻や絹を重ねて貼り合わせ素地を作ったもの。
- ^ か。注酒器。
- ^ ひ。匙。
- ^ う。大型で水平のご飯茶碗であり、側面なかほどに折れ上がった耳がつく。一説に盛水器、食器。(三省堂『新明解漢和辞典』)
- ^ あん。机。
- ^ い。把手のついた手洗い用の水を入れる容器。手に注いで使う。(『新選漢和辞典』第7版)
- ^ ふくりん。器物のへりを金属の類で覆い、飾ったもの。(『新選漢和辞典』第7版)
- ^ もしくは「南倻飽」
- ^ ふ。塩辛やひしおなどを入れる小さな甕(『新選漢和辞典』第7版)
- ^ 3本足の壺。
- ^ 黄ら (1991) p.220 では他に鐘、磬、筑を挙げる。磬(けい)は石もしくは玉製の板であり、吊り下げたものを打って鳴らす。筑(ちく)は竹でうつ弦楽器の一種。(いずれも三省堂『新明解漢和辞典』)
- ^ 被葬者が冥界でも金に困らぬよう、泥で貨幣をかたどり焼いたもの。(陳 (1981) p.83)
- ^ 八銖半両銭は呂后時代、四銖半両銭は文帝5年(前175年)に鋳造された、四角い穴の開いた円形貨幣。いずれも武帝の元狩4年(前119年)の五銖銭の鋳造によって廃止された。従って埋葬年がそれより下ることはない。(陳 (1981) p.83)
- ^ たいこう。帯の留め金。
- ^ 社会科学院 (1988) p.403 は篆書・隷書の2種、松丸ら (2003) p.462 は篆書・隷書・秦隷の3種、黄ら (2003) p.220 は篆書・隷書・草書の3種とする。
- ^ 中国社会科学院 (1988) p.403 では、『黄帝書』と『老子』乙本で1篇、『刑徳』甲・乙種で1篇、合計26篇とする。
- ^ 天文・暦・占いなどの術
- ^ 朱 (2006) p.197 は方技とする。
- ^ 松丸ら (2003) p.462 はこの他に、土坑・房屋・廟宇などを示した『城邑和園寝図』を挙げる。
- ^ 木金火土水の五星の天文現象に伴う事象を占った言葉
- ^ 朱 (2006) p.205 は103種、黄ら (2003) p.221 は108種とする。
- ^ 朱 (2006) p.206 は『脈経』、松丸ら (2003) p.464 は『脈法』とする。
- ^ 松丸ら (2003) p.464 は医書簡を『合陰陽』(木簡)・『天下至道談』(竹簡)・『雑禁方』(木簡)・『十問』(竹簡)の4篇に分類している。
出典
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