馬王堆漢墓 馬王堆漢墓の概要

馬王堆漢墓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/30 13:01 UTC 版)

1972年から1974年にかけて発掘され、国際的に注目された。発掘時、利蒼の妻のミイラがまだ生きているかのような保存状態だったことで知られる。

副葬品に貴重な工芸品や帛書馬王堆帛書)が含まれており、考古学だけでなく文献学中国史中国思想史中国医学史中国書道史などの諸分野に重要な資料を提供した。

経緯

現在の馬王堆漢墓

馬王堆漢墓は湖南省長沙市の中心から東へ約8キロメートルの位置にある[3]五代十国時代に長沙で王として割拠した馬殷の墓といつからか誤って伝えられ、これが「馬王堆」という名の由来になった[4][5][3][注 1]1951年中国科学院考古研究所[注 2]の調査によって漢代の墓葬群と認定され[3]1956年以降は湖南省文物保護単位中国語版に指定された。

1971年末、近隣の者が東側の丘に墓坑を発見し[6]、翌1972年1月から湖南省博物館と中国科学院考古研究所が中心となり、全国から学者を集め大規模な発掘が行なわれた[6][3][5]。 やがて出土した棺から生けるが如き婦人の遺体が発見されると、100社にのぼるマスコミが競ってこれを報道し、周恩来総理から一般庶民までがこの「西漢女尸」(前漢の女性遺体)の発見に沸き立った[7][8][9]。中国国外でもこのニュースは大きく報道され、ひろく関心を集めた[6]。 副葬品の漆器に「軑侯家」(たいこうか)、封泥に「軑侯家丞」とあったことから、恵帝の時に列侯に叙せられた軑侯家ゆかりの女性と考えられた[6]

発掘の成果が極めて大きかったことから[4]、東側の丘を1号墓とし、1973年11月より西側の丘を2号墓として発掘が再開された[5]。2号墓は唐代に盗掘された跡があり[10]、数度の盗掘で内部が破壊されていたが[11]、残されていた副葬品の中に「利蒼」と刻まれた玉印、および「軑侯之印」「長沙丞相」と刻まれた銅印という決定的発見があった[4]。これらの副葬品、墳丘が二つ並んだ比翼塚(夫婦を葬ったもの)になっている[4]ことなどから、2号墓は初代軑侯の利蒼、1号墓はその妻と確定した[12]。 3号墓は1号墓の南に埋もれるようにあった。盗掘の跡は無く、男性の遺体は骨のみ残り、利蒼夫妻の息子と考えられた[12]。3号墓の副葬品では、特に帛書が重要な文献学的発見となった[13]。 発掘調査は1974年1月に完了した[5][3]

現在、1号墓は埋め戻されて高さ20メートルほどの赤土の小丘となり、3号墓は墓坑に上屋を被せ保存されている[14]。 1号墓被葬者の遺体、棺、および副葬品の一部は長沙湖南省博物館で一般公開されている[11][15]

墳墓

墳墓は東西にほぼ同じ大きさで並んだ2つの墳丘からなり[16]、東側が1号墓、西側が2号墓、そして1号墓の封土(盛り土)に覆われる形でその南側に3号墓があった。東西の丘はそれぞれ高さ15-16メートル[16]、底部の直径40-60メートル[16]、頂部の間隔は約40メートル[17]であり、1号墓の場合、頂部は直径30メートルの平坦面になっていた[18]。1号墓は、後に発掘される2号墓・3号墓の封土を部分的に破壊していたため、それらの後に造営されたと考えられる[12][5]

3基の墓はいずれも墳丘、北側についた斜坡式の墓道、やや南北に長い長方形[19]をした竪穴式の墓坑(墓壙)、その底部に木板で構築された槨室(墓室)からなる[20]

ここは元々、高さ4-5メートルの自然丘陵であり[16]、墓を造営するときにまずその丘で墓坑の下半分が7-8メートルほど垂直に掘り下げられ[16][20]、次いで1層ずつ版築しながら墓坑の上半分および墓道が築かれた[16][20][20]

1号墓の墓坑を上から見た図。北側に墓道が通っている[21]

墓坑の構造は3墓とも基本的に同一であり[16]、まず墓口(最上部)部分が四辺とも階段状(1号墓は4段、2号墓と3号墓は3段)に作られ、その先は墓底まで次第に狭くなるよう桶状に作られた[22][20]。墓口と墓底のサイズ、深さはそれぞれ以下のとおりである[20]。(単位:メートル)

墓口 墓底
長さ 長さ 深さ
1号墓 20.0 17.9 7.6 6.7 16.0
2号墓 11.5 8.95 7.25 5.95 8.0
3号墓 16.3 15.45 5.8 5.0 10.7

墓坑は北辺中央部から外に向かって谷状に切り開かれ[19]、そこに墓道が通された。墓道の内側末端は槨頂と等しいかやや高く、外側は墓口付近の高さまで上り坂になる[20]。2号墓と3号墓の墓道は、両側に高さ1メートル余りの2体の跪座偶人が向かい合うように置かれ[20][23]、それらは木の骨組に縄を巻き草藁を混ぜた青膏泥を肉付けして作られていた[22][23]

1号墓の棺槨の模式図。木組を上から見たところ[20]

墓坑底部の中央に、巨大な木板によって槨室(棺槨、木槨とも)が構築された[20]。まず3本の枕木を敷き[20][24]、その上に二重の底板を乗せ[24]、さらに木板を井桁状[18]に組み合わせて槨(かく、棺の外周施設)を作り、棺室および辺箱[注 3]とした[20][24]。その上は頂板と二重の蓋板で覆われた[24]

1号墓の槨室は長さ・幅・高さが 6.73×4.9×2.8メートルあり[24][25]、あわせて 52 立方メートルもの木材が使われた[25][24]。木材はであり[24][注 4]、70枚[26]ある木板のうち、最大のものは 4.84×1.52×0.26 メートルで、槨の側板に使われていた[18]。組み立ての際に金属製のが使用された痕跡は無く[7][26]、全て・手斧・だけを用い[7]、掛け継ぎ、ほぞとほぞ穴、ほぞ釘などの接合方法によって構築された[24]

槨の上下・四囲には、内部を包み込むように厚さ 0.4-0.5 メートル・重量5トンの木炭層が、その外側には厚さ 1.0-1.3 メートルの白膏泥(白陶土、カオリン)層がつくられた[25][22][20][27]。白膏泥は粘度が高く、浸透性が非常に低い[22]。この木炭層と白膏泥層が、内部の密閉に決定的な役割を果たしたと考えられる[25][22]。埋葬が済んだのち、土を埋め戻して突き固め、高大な墳丘を築いた[16]

墓の形式と副葬品は、ほぼの様式に従っている[28]。1号墓は一槨四棺、2号墓は一槨二棺[注 5]、3号墓は一槨三棺であった[20]。1号墓は3基のうち最も状態が良く、竪穴木槨木棺墓の原型をほぼ完全に留めていた[26]。1号墓と2号墓の墳丘は高さ5-6メートル、3号墓の墳丘は1号墓の下に埋もれ2-3メートルほどが残存している[20]


注釈

  1. ^ 由来の異説として、墳丘が東西2つ並んだ姿からまず「馬鞍堆」と呼ばれ、音が「馬王堆」に変化したというものがある。(松丸ら (2003) p.471)ほか被葬者の異説として、劉発が母の程姫と生母の唐姫を埋葬した「双女塚」とするものもあった。(朱 (2006) p.189)
  2. ^ 当時。現在は中国社会科学院へ移管。
  3. ^ へんそう。副葬品を納める箱構造。
  4. ^ 小倉 (2003) p.145 では湖南省西方産の材とする。
  5. ^ 2号墓は棺槨が既に朽ちていたが、残っていた4枚の底板から一槨二棺と考えられる。(中国社会科学院 (1988) p.399)
  6. ^ きんい。遺体を覆う長衣。
  7. ^ 松丸ら (2003) p.457 は第三棺も黒漆塗りとする。
  8. ^ 貼り付けた羽毛で文様を表した絹。
  9. ^ 2号墓、3号墓の白膏泥層は比較的薄く、厚さも不均等だったために充分な密封がなされず、出土物の保全状態も劣ることになった。(朱 (2006) p.191)
  10. ^ 松丸ら (2003) p.461 は、外棺・中棺は白木作りとする。
  11. ^ 被葬者の名前などを記した旗。
  12. ^ トルファンで発掘された墓の棺を覆っていた帛画には、人身蛇尾のふたり神(伏羲女媧)が描かれている。(陳 (1981) p.92)
  13. ^ 踆烏は本来3本足のはずだが、帛画の鳥は2本足のようである。(陳 (1981) p.92)
  14. ^ このひき蛙は常娥(嫦娥、姮娥)の変身である。(陳 (1981) p.92)
  15. ^ 10個の太陽のうち1個は扶桑の上に、残り9個は樹下にあるとされるため、帛画の太陽は1個足りないことになる。(陳 (1981) p.92)
  16. ^ 楚の地に伝わる魂呼(たまよばい)の歌で、天の九重の関門にいる虎豹が、天に昇ろうとする下界の人間を噛み殺すと歌っている。「魂よ帰り来れ。君、天に昇る無れ。虎豹、九関、下人を啄害す。」
  17. ^ 劉邦が好んで使ったとされる竹皮の冠。
  18. ^ 魂魄は死後に分離し、魂は天上世界へ昇り、魄は地下世界の遺体に宿る。
  19. ^ 松丸ら (2003) p.461 は槨室の東西の壁とする。
  20. ^ 薄いあやぎぬ。日本で言う羅紗とは別物。(夏 (1984) p.98)
  21. ^ じはい。楕円形の左右の長辺に耳状の把手がある浅い杯形の食器。(『広辞苑』第5版)
  22. ^ さかずき。巵は四升入りの大きなものを指す。(『新選漢和辞典』第7版)
  23. ^ くしげ。櫛箱。
  24. ^ いわゆる乾漆。麻や絹を重ねて貼り合わせ素地を作ったもの。
  25. ^ か。注酒器。
  26. ^ ひ。匙。
  27. ^ う。大型で水平のご飯茶碗であり、側面なかほどに折れ上がった耳がつく。一説に盛水器、食器。(三省堂『新明解漢和辞典』)
  28. ^ あん。机。
  29. ^ い。把手のついた手洗い用の水を入れる容器。手に注いで使う。(『新選漢和辞典』第7版)
  30. ^ ふくりん。器物のへりを金属の類で覆い、飾ったもの。(『新選漢和辞典』第7版)
  31. ^ もしくは「南倻飽」
  32. ^ ふ。塩辛ひしおなどを入れる小さな甕(『新選漢和辞典』第7版)
  33. ^ 3本足の壺。
  34. ^ 黄ら (1991) p.220 では他にを挙げる。磬(けい)は石もしくは製の板であり、吊り下げたものを打って鳴らす。筑(ちく)は竹でうつ弦楽器の一種。(いずれも三省堂『新明解漢和辞典』)
  35. ^ 被葬者が冥界でも金に困らぬよう、泥で貨幣をかたどり焼いたもの。(陳 (1981) p.83)
  36. ^ 八銖半両銭は呂后時代、四銖半両銭は文帝5年(前175年)に鋳造された、四角い穴の開いた円形貨幣。いずれも武帝元狩4年(前119年)の五銖銭の鋳造によって廃止された。従って埋葬年がそれより下ることはない。(陳 (1981) p.83)
  37. ^ たいこう。帯の留め金。
  38. ^ 社会科学院 (1988) p.403 は篆書・隷書の2種、松丸ら (2003) p.462 は篆書・隷書・秦隷の3種、黄ら (2003) p.220 は篆書・隷書・草書の3種とする。
  39. ^ 中国社会科学院 (1988) p.403 では、『黄帝書』と『老子』乙本で1篇、『刑徳』甲・乙種で1篇、合計26篇とする。
  40. ^ 天文・暦・占いなどの術
  41. ^ 朱 (2006) p.197 は方技とする。
  42. ^ 松丸ら (2003) p.462 はこの他に、土坑・房屋・廟宇などを示した『城邑和園寝図』を挙げる。
  43. ^ 木金火土水の五星の天文現象に伴う事象を占った言葉
  44. ^ 朱 (2006) p.205 は103種、黄ら (2003) p.221 は108種とする。
  45. ^ 朱 (2006) p.206 は『脈経』、松丸ら (2003) p.464 は『脈法』とする。
  46. ^ 松丸ら (2003) p.464 は医書簡を『合陰陽』(木簡)・『天下至道談』(竹簡)・『雑禁方』(木簡)・『十問』(竹簡)の4篇に分類している。

出典

  1. ^ 大西克也 (2016年). “UTokyo BiblioPlaza”. www.u-tokyo.ac.jp. 東京大学. 2020年11月10日閲覧。
  2. ^ 馬王堆老子(まおうたいろうし) NOA-webSHOP | 明徳出版社”. rr2.e-meitoku.com. 明徳出版社. 2020年11月10日閲覧。
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  4. ^ a b c d e 陳 (1981) p.84
  5. ^ a b c d e f g 朱 (2006) p.189
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  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 黄ら (2003) p.218
  8. ^ a b c d e f g h i j 朱 (2006) p.188
  9. ^ a b c d e f g h i 鶴間 (2004) p.168
  10. ^ a b c d e f g h 鶴間 (2004) p.169
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 松丸ら (2003) p.460
  12. ^ a b c d e f 陳 (1981) p.85
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n 社会科学院 (1988) p.403
  14. ^ 小倉 (2003) p.144
  15. ^ 地球の歩き方編集室『地球の歩き方 中国 2010-2011』ダイヤモンド社、2010年、380頁。ISBN 978-4478058268 
  16. ^ a b c d e f g h i j k 朱 (2006) p.190
  17. ^ 松丸ら (2003) p.457 の地図より
  18. ^ a b c d e f 飯島 (2003) p.379
  19. ^ a b 飯島 (2003) p.378 の図より
  20. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 社会科学院 (1988) p.399
  21. ^ 飯島 (2003) p.378
  22. ^ a b c d e 朱 (2006) p.191
  23. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 松丸ら (2003) p.461
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  58. ^ 朱 (2006) p.199
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  66. ^ a b c d 朱 (2006) p.203
  67. ^ a b c d e 松丸ら (2003) p.464
  68. ^ a b c d e f g h i 朱 (2006) p.206
  69. ^ a b c d e f g h 朱 (2006) p.207
  70. ^ a b c 朱 (2006) p.208
  71. ^ a b 朱 (2006) p.146


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