火消 江戸以外での火消

火消

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/25 06:31 UTC 版)

江戸以外での火消

江戸以外の大都市や各藩の城下町でも、火消は存在したが、江戸のように大規模で制度化されたものとはならなかった。例外的に加賀藩前田家の本国金沢の町では、1000石以上の藩士10名を火消役とし、火の見櫓を備えた屋敷に常時火事装束で待機させるなど、消防組織が整備されていた。町内には82箇所もの火の見梯子が設けられ、家々の屋根には水を入れる天水桶が常備されていた。風の強い日には町人に男女を問わず火の用心の巡回をさせるなど、江戸よりも進んだ防火体制がとられていた。江戸において加賀鳶が活躍した背景には、こうした加賀藩の充実した防災制度があるという[25]

明治維新後、東京(江戸)では町火消を消防組に改編し制度化していたが、全国的に統一された規則は作られなかった。そのため、東京以外での消防組織は、各市町村の条例により、あるいは私的に設けられていた。この状態は、明治27年(1894年)に消防組規則が制定され、警察署長が監督する官設消防組が誕生するまで続いた[26]

火消人足

臥煙

臥煙(がえん、臥烟)は定火消に召し抱えられた火消人足。定火消が火事場で行なう消火活動の主力である。消防のために雇われた丸抱えであり、他になどの本業を持っていた町火消の火消人足とは異なる。火事場で死亡した臥煙は、四谷にあった臥烟寺(現存していない)に葬られた[27]。真冬でも法被1枚で過ごし、全身に彫り物をしたものが多かった。普段は火消屋敷の大部屋で暮らしていたが、博打喧嘩で騒動を起こすこともあった。臥煙は必ず江戸っ子でなければ採用されず、は奴銀杏(やっこいちょう)という、特殊な粋な結い方をした。出動の時には、白足袋に、真新しい六尺の締め込みをつけ、半纏一枚だけで刺し子すらも着ない。

また、町に出ては商家に銭緡(ぜにさし)[注釈 17]を押し売りし、購入しなかった商家に対しては報復として、火事のときに騒動に紛れその家屋を破壊するなど、町人には評判の悪い存在であった。

店人足と鳶人足

町火消の構成員は、当初地借・店借(店子)・奉公人など、店人足(たなにんそく)と呼ばれる一般の町人であった。これは、享保4年(1719年)に名主に対し、鳶職人を雇わないようにとの触が出されていたためである[注釈 18]。しかし、江戸時代の消火活動は、延焼を防ぐため火災付近から建物を破壊していくという破壊消防が主であり、一般の町人よりも鳶職人に適性があることは明らかであった。名主たちの、大勢の店人足を差し出すよりも少数の鳶を差し出した方が有効であるとの訴えもあって、町火消の中心は鳶を生業とする鳶人足(とびにんそく)によって構成されるようになっていった[注釈 19]

鳶人足に対しては、町内費から足留銭[注釈 20]をはじめ、頭巾・法被・股引などの火事装束も支給されていた。また、火事で出動した場合には足留銭とは別に手当てが支給された。火事が起こると、定められた火消人足のうちからまず鳶人足を出動させ、大火の場合は残りの店人足も出動させた。

町火消の構成

町火消は町奉行の指揮下に置かれ、町火消を統率する頭取(とうどり、人足頭取)、いろは組などの各組を統率する(かしら、組頭)、纏持梯子持(合わせて道具持)、平人(ひらびと、鳶人足)、土手組(どてぐみ、下人足、火消の数には含まれない)といった構成になっていた。頭取には一老・二老・御職の階級があり、御職は顔役とも呼ばれ、江戸市中で広く知られる存在であった。江戸全体で約270人いた頭取[注釈 21]は、力士与力と並んで江戸三男(えど・さんおとこ)と呼ばれ人気があり、江戸っ子の代表でもあった[30]

喧嘩

火消人足による喧嘩は、火事場での喧嘩と、火事とは無関係な喧嘩とに大別できる。前者は火消人足同士による消火活動時の功名争いが主な原因であり、消口争い(けしくちあらそい)と呼ばれた。後者は火消人足の気性の荒さや地元での縄張り意識などが原因であり、喧嘩相手も同じ火消人足とは限らない。町火消同士での喧嘩では、死者が出たり、仲直りのため多大な費用をかけた手打式が行なわれたりと、大きな騒ぎになることも度々であった。文政元年(1818年)の「ち組」と「を組」の手打式では、両国の座敷を借り上げ、江戸中の組合から1000人を越える人々が集まり、決められた作法と口上によって朝から夕方まで盛大に行なわれている[5]

消口争い

火消が火事場に到着すると、組の名前を書いた木札(消札、けしふだ)を近所の軒先に掲げ、纏持を屋根に登らせて集合の目印にするとともに、誰が活動しているのかを知らしめた。消札は褒美を受けるときの証拠でもあったため、後から駆けつけたにもかかわらず自身の組の札と勝手に取り替えるもの、纏持を屋根から無理やり降ろして自身の組で火事場を乗っ取ろうとするものなどが現れ、肝心の消火活動をせずに喧嘩をはじめることも頻繁であった。幕府はしばしば触を出して火事場での喧嘩を禁止したが、江戸時代初期には武家火消同士で、町火消誕生後は武家火消と町火消で、武家火消が衰退すると町火消同士で、といった具合で功名争いは絶えず、喧嘩がなくなることはなかった。

享保3年(1718年)、定火消と加賀鳶の間に起きた喧嘩では、現場での消口争いから始まり、死者を出した定火消側の仙石兵庫が加賀藩主前田綱紀に賠償を求める事態となる。老中への訴え、町奉行大岡忠相による調査と続き、最終的には将軍徳川吉宗が仙石兵庫に厳重注意を与える結末[注釈 22]となる、大騒動であった。

め組の喧嘩

文化2年(1805年)正月、芝神宮境内で行なわれていた勧進相撲の見物で、鳶人足の入場を巡ってはじまった[注釈 23]争いは、力士十数人とめ組の火消人足100人以上との喧嘩に発展した。

この喧嘩は大きな話題となり、文政5年(1822年)の市村座『御摂曾我閏正月』・明治5年(1872年)の中村座『恋慕相撲春顔触』・明治23年(1890年)の新富座神明恵和合取組』と、3度にわたって芝居化された。

火消道具

詳細はそれぞれの内部リンクを参照

纏と火事装束

め組の纏(東映太秦映画村で再現されたもの)

(まとい)は、江戸消防のシンボルであり、「纏が火を消した」と言われることすらあった[31]。もともとは、武士が戦場で掲げていた家紋つきの旗印馬印に由来するものである。当初は幟型の纏が使用されていたが、のちに陀志(だし)と呼ばれる大きな頭部分と、馬簾(ばれん、纏の周囲に細長い厚紙や革を垂れ下げたもの)を備えた型に代わっている。各組を象徴するものとして様々なものがあり、豊臣秀吉から拝領したという伝承のあった加賀鳶の纏や、大岡忠相が考案し丸玉と四角の台を組み合わせた「い組」の纏[注釈 24]などがあげられる。

大名火消の火事装束は、頭に火事頭巾(火事かぶと)、身体には革羽織に胸当・踏込(ふんごみ、あるいは野袴)といったものである。火事頭巾には豪華な立物や錣(しころ)が取り付けられ、革羽織には金糸の縁取りや派手な彩色が施されるなど、華美であった。町火消の盛装は、印半天、腹掛、股引などである。火事場へはさらに刺子頭巾(猫頭巾、目の部分だけが開いている)、膝下まである刺子長半天などを着て出動した。半天の背中には組の紋が、えりには組名が染めつけられていた。刺子長半天には裏地に錦絵風の模様をつけた豪華なものもあったが、天保の改革によって規制されている。

消防用具と火の見櫓

水鉄砲
江戸の町中に常設されていた消防用の桶(深川江戸資料館

火事場では、消火のため様々な道具が用いられた。梯子は、梯子持と呼ばれた平の鳶人足より上位のものが取り扱い、屋根に登ったり水を運び上げる足場として使用された。燃えにくいように、水を含んだ青竹の新しいもので作られていた。

鳶口(とびぐち)・刺又(さすまた、指俣)・などは、火元や周囲の建物を破壊し延焼を防ぐために使用された。鳶口は、火消が必ず持っていた道具としてあげられ、しばしば喧嘩にも用いられたため、幕府によって長さに制限が設けられていた。

竜吐水(りゅうどすい)・独竜水(どくりゅうすい)・水鉄砲玄蕃桶(げんばおけ、2人で担ぐ大桶)などは、水を火元に直接かけたり、火消人足に水をかけたりするために使用された。竜吐水は木製の手押ポンプで、空気の圧力を用い水を15mほど飛ばすことができた。しかし、継続的に水を供給することが難しく、それほど消火の役にたたなかったという。

そのほか、火の粉を払い延焼を防ぐための大団扇水筵(みずむしろ、海草で作られ水に浸して使う。ぬらすために水箱と呼ばれるものを使用した)なども火事場で用いられた。

火事を早期に発見するために設けられた設備として、火の見櫓火の見梯子がある。発見した火事を知らせたり、出動の合図としては半鐘板木が使用され、火事場の遠近などによって叩き方が定められていた。


注釈

  1. ^ 「火消し」という「し」を付けた表記も幅広く用いられているが、参考文献であげた書籍が基本的に「火消」の表記を採用しているため、本項では冒頭文を除き「火消」に統一する。
  2. ^ 火事の回数については研究者により差異が存在する。ここでは『江戸の火事』P.3の記述を参考に回数を引用した。
  3. ^ 火事に紛れての兵乱などが警戒され、治安維持を優先していた[2]
  4. ^ 所々火消・方角火消・各自火消などは、この大名火消の一種である。
  5. ^ 水谷勝隆伊東祐久加藤泰興などに命じられている。翌正保元年(1644年)には10家3組に、正保3年には9家3組に、慶安2年(1649年)には10家3組にと編成が変わっていく[6]
  6. ^ 犠牲者の数は10万人台との説もあるが、ここでは内閣府防災部門の中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」による平成16年3月の報告書[1]の人数をあげた。
  7. ^ 大名屋敷の火の見櫓建築には制限があり、方角火消では3丈(約9.1m)、それ以外の大名では建築を許された場合でも2丈5尺(約7.6m)までであった[9]
  8. ^ 慶安3年(1650年)、4000石以上の旗本2名を火消役に任命したことを定火消のはじまりとする説もある。1658年説-『江戸の火事』『江戸学事典』など、1650年説-『江戸の火事と火消』『新消防雑学事典二訂版』など。
  9. ^ 定火消削減の理由は、江戸幕府の財政難にある。代わって八王子千人同心に火消役が命じられたが、大きな活動はなくやがて廃止された[13]
  10. ^ 米沢藩上杉家の場合、『上杉家年譜』寛永18年(1641年)に火事で老中奉書により出動した記録で「防火士頭」「火消方」などの記述が見られる[14]
  11. ^ この場合の「町」は尺貫法の単位であり、1町は約109m。
  12. ^ 参勤交代が3年に1度・江戸在留期間も100日となり、人質であった大名妻子の帰国も許されたため、江戸藩邸の人員が大幅に減少し火消役を維持できなくなった[17]
  13. ^ 店火消に関しては、「何をもって店火消と呼ぶか」「誕生の時期・活動時期はいつか」などで諸説がある。「江戸における店火消の動向」では、店火消に関する研究の不足を指摘したうえで、町火消誕生後も幕末にいたるまで、店火消が江戸の消防に大きな役割を果たしていたとしている。
  14. ^ 「ひ」が「火」に通じるため避けられたことには異論がないが、他の文字が置き換えられた理由としては、語呂が悪いから・忌み言葉に通じるから・「ん」は元々いろは文字に含まれないから、といった様々な説がある。四番組と七番組が吸収合併された理由も、「四=死」「七=質」に通じるため、など諸説がある。詳細については参考文献や外部リンクを参照。
  15. ^ このことに関して、山本純美は著書において「本末転倒もはなはだしい」「消防制度誤用の珍しい例」と評している[23]
  16. ^ 町火消時代から昭和14年(1939年)までの殉職者118人の名が記されている[24]
  17. ^ 寛永通宝など銭貨中央の穴に通して束にするため使用する、細い縄や紐のこと。
  18. ^ 翌年には諸大名に対しても、火消人足として鳶職人を雇わないようにと命じている。これは、日ごろから町で乱暴を働いたり、火事のときに遺恨のあるものへ報復するなど、鳶を生業とする火消の問題行動が多かったためである[28]
  19. ^ 「せ組」の場合、差し出す火消人足281人を、鳶人足70人に代えることが認められている[29]
  20. ^ 本業の鳶で遠方へ出向くことを禁じ、風の強い日などには番屋へ詰めて警戒させるための費用。
  21. ^ 『江戸の火事と火消』P.63による。『江戸の火事』P.97では弘化年間に頭取が177人いたとしている。
  22. ^ 加賀鳶が消火を終えかけたところに、仙石兵庫の組が割り込んだと認められたため。
  23. ^ こうした興行では、地元の鳶人足であれば入場は自由であったが、このときは地元以外のものを連れて入場しようとしたことが争いの原因である。
  24. ^ 丸玉は芥子玉で、四角の台は枡をあらわす。また、丸玉は天で、四角の台が地をあらわすという天地陰陽説もある[32]

出典

  1. ^ 『江戸の火事と火消』P.23
  2. ^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.95
  3. ^ 『消防博物館歴史案内』江戸火消編「武家火消の誕生」
  4. ^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.102
  5. ^ a b c 『元禄武鑑』による。(『江戸学事典』P.577)
  6. ^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.98
  7. ^ 初回の任命は一組:水谷勝隆伊東祐久亀井茲政松平英親 、二組:加藤泰興京極高和秋月種春松平定房 三組:有馬康純稲葉紀通木下俊治青山幸利 四組:稲葉信通古田重恒九鬼久隆井上正利
  8. ^ 『江戸の火事と火消』P.49
  9. ^ 『江戸の火事』P.37
  10. ^ a b 『江戸消防 創立五十周年記念』P.74
  11. ^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.100
  12. ^ 『東京の消防百年の歩み』P.21
  13. ^ 『江戸を知る事典』P.43
  14. ^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.112
  15. ^ 『江戸の火事』P.39
  16. ^ 『江戸三火消図鑑』P.196
  17. ^ 『町火消たちの近代』P.42
  18. ^ 黒木 1999, p. 68.
  19. ^ 黒木 1999, pp. 69-70.
  20. ^ 『江戸の火事』P.82
  21. ^ 『江戸の火事と火消』P.59
  22. ^ 『江戸の火事』P.90
  23. ^ 『江戸の火事と火消』P.93
  24. ^ 『江戸三火消図鑑』P.225
  25. ^ 『江戸の火事と火消』P.52
  26. ^ 『町火消たちの近代』P.146
  27. ^ 『江戸三火消図鑑』P.193
  28. ^ 『町火消たちの近代』P.18
  29. ^ 『町火消たちの近代』P.21
  30. ^ 『江戸の火事』P.98
  31. ^ 『江戸三火消図鑑』P.197
  32. ^ 『江戸三火消図鑑』P.198


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