1960-1970年代
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「ラ・リューシュ」の記事における「1960-1970年代」の解説
ラ・リューシュは荒廃を極め、アルフレッド・ブーシェの承継人らは宅地造成業者に売却することにした。これに反対し、ラ・リューシュの保護を求める委員会が結成された。シャガールを委員長とするこの委員会は、かつてここに住んでいた芸術家の作品を売却してラ・リューシュを買い取ろうとしたが、必要な金額に達しなかった。このとき、この話に心を痛め、ラ・リューシュの買い取りと修復に必要な費用に相当する寄付を申し出たのが、地球物理学者で自由政治科学学院 (École Libre des Sciences Politiques) の事務総長 (1928 -1937)、世界最大の油田開発企業シュルンベルジェ社の会長などを歴任したルネ・セドゥーとシュルンベルジェ社の創設者マルセル・シュルンベルジェの娘ジュヌヴィエーヴ・セドゥーの夫妻であった。さらに、当時の文部大臣、政治家のジャック・デュアメル(フランス語版)とベルナール・アントニオ(フランス語版)の働きかけにより工事着工の運びとなった。 1972年1月19日付デクレにより、ラ・リューシュのファサードと丸屋根が歴史的記念物に指定された。
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1960-1970年代
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3年の修習期間を経て、中山競馬場・白井分場に厩舎を構える高松三太の門下生となる。高松も開業2年目という新進調教師だった。卒業年次は騎手免許試験に落第し、1年の浪人を経た1967年に免許を取得。同年3月に騎手デビューを果たし、5月に初勝利を挙げた。 初年度は騎乗数も少なく8勝に終わったが、2年目には23勝を挙げた。4年目に入った1969年1月、厩舎期待馬のアローエクスプレスで京成杯に勝利し、重賞初勝利を挙げる。同馬は当年のクラシック戦線における関東の最有力馬と目されていたが、若い柴田の騎乗に不安を抱いた馬主・伊達秀和の意向で、クラシック初戦の皐月賞を前に加賀武見へ乗り替わりとなった。これは騎乗馬確保もままならない若手騎手の苦難を示す例として、また柴田の飛躍の原動力となったエピソードとして後年まで語られている(アローエクスプレス#柴田政人とアローエクスプレスも参照)。 1971年には35勝を挙げ、全国ランキングで初のベスト10入りを果たす。しかしこの成績に慢心し、翌年は18勝に終わった。これを受けた翌1973年、高松より「馬を集めてやるから、1ヶ月だけでも関東リーディングを獲ってみろ」と諭され奮起、これに応えて61勝を挙げ、初の関東リーディングジョッキーとなった。当年高松も48勝を挙げ、関東のリーディングトレーナーとなる。この頃より高松厩舎に有力馬を預ける馬主が増加し、これに伴い厩舎の主戦である柴田の成績も上位で安定していった。以後もしばらく八大競走には恵まれなかったが、デビュー12年目の1978年、厩舎所属馬のファンタストで皐月賞に優勝し、八大競走初制覇を果たす。同馬はアローエクスプレスと同じく伊達秀和の所有馬であり、アローの甥に当たった。 しかし同年8月、高松が肝臓癌に冒されていることが判明し、翌1979年1月に死去。これに伴い高松の親友であった境勝太郎厩舎に一時移籍し、3月に三太の実子・高松邦男の厩舎開業と共に再移籍した。三太と柴田の強固な結び付きは競馬界で広く知られており、柴田は「自分の親が死んだとしても、これほどの虚脱感にとらわれるかどうか」と嘆いた。また、同年3月には同期生の親友・福永洋一が競走中に落馬し、騎手生命を絶たれる事態にも遭遇している。
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1960 - 1970年代
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「福島交通」の記事における「1960 - 1970年代」の解説
1959年(昭和34年)12月16日 - 白河営業所 - 那須温泉間の路線申請し、承認され運行開始 1961年(昭和36年)10月1日 - 福島市内のバス車両がワンマン化される。 7月20日 - 福島電気鉄道がバス会社の福島県南交通を合併。 1962年(昭和37年)1月18日 - 福島交通観光株式会社を設立。 7月12日 - 福島電気鉄道が福島交通に社名変更。 1967年(昭和42年)9月16日 - 飯坂東線 聖光学院前 - 湯野町間を廃止。 1968年(昭和43年)5月23日 - 福島交通不動産株式会社を設立。 1969年(昭和44年)7月10日 - 特急バス「会津若松 - 郡山 - 平線」運行開始。国道49号経由。 大型レジャー施設「那須ロイヤルセンター」開業。 1971年(昭和46年)4月12日 - 飯坂東線を全線廃止。 10月1日 - 福交整備株式会社を設立。 1975年(昭和50年)3月31日 - 株式会社福島交通アド・エージョンシー(現:フクコー・アド)を設立。 1979年(昭和54年)3月31日 - 白河営業所 - 那須温泉間廃止
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1960 - 1970年代
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「魔法少女」の記事における「1960 - 1970年代」の解説
日本の魔法少女作品は、横山光輝原作で、東映動画によりアニメ化された『魔法使いサリー』(1966年)がジャンル第一作であるとされている。『サリー』では、人間の世界にやってきた大魔王の娘「サリー」を取り巻く人間模様と、魔法を使っての人助けを軸とした人情ドラマをメインとしている。『サリー』を皮切りに、東映製作で1980年代初頭まで断続的に放送された魔法少女作品群は、現在では「東映魔女っ子シリーズ」と総称されている。 サリーに続いて東映動画でアニメ化された赤塚不二夫原作の『ひみつのアッコちゃん』(漫画1962年、アニメ1969年)では、鏡の精から魔法のコンパクトを授かった人間の少女「鏡アツ子」(後の作品では「加賀美あつ子」)が登場する。ここに、『サリー』の「異世界からの訪問者」という設定に対し、『アッコ』の「魔法の力を授かった人間の少女」という設定が示され、以後の魔法少女アニメに於ける「先天型魔法少女」「後天型魔法少女」の二大主流ジャンルの原型が確立された。もっとも、同時期に流行した「変身ヒーロー」が人間から超人へ変身する以外に設定上の共通点を持たないように、東映の魔女っ子アニメは「魔女っ子=不思議な力を持つ少女」つまり「魔法少女の類型」を踏襲した少女が活躍するエブリデイ・マジック作品であった事実は後々まで様々な派生作品(戦闘美少女系を含む)を生み出す源になる。 また、『魔法使いサリー』のすぐ後にこちらはアメリカ映画『メリー・ポピンズ』の影響で同じ横山光輝原作(原画)の『コメットさん』(1967年)が実写メディアで製作されている。この時期、児童向けの映像作品はアニメーションと実写の児童向けドラマも同様に展開されており、NETでは1969年に『ひみつのアッコちゃん』と平行して土曜には『魔女シリーズ』として魔法少女アニメの祖となったドラマ『奥さまは魔女』を放送し、同放送枠で海外魔法ドラマ『かわいい魔女ジニー』【第2シリーズ】や松竹製作の『魔女はホットなお年頃』(1970年)と2年にわたって魔法物のドラマを放送した。この枠は『仮面ライダー』にとってかわられるが、その影響を受ける形で『仮面ライダー』の作者の石ノ森章太郎原作の『好き! すき!! 魔女先生』(1971年)において、魔法少女に入るのかは微妙だが(主人公の「月ひかる」は若いが、成人かつ超能力宇宙人なので)、アニメに20年先駆けて美少女戦士(アンドロ仮面)が登場している。 アニメのジャンルでは『アッコ』の後も東映製作によりシリーズを重ね、当時の少女漫画の影響を受ける形で登場した、1974年の『魔女っ子メグちゃん』の主人公として登場したお転婆でコケティッシュな「メグ」のキャラクターは、『サリー』の優等生的な魔法少女像を払拭し、これ以降の魔法少女物では、やんちゃな主人公が幅を利かせることになる。また、クールなライバルヒロインの「ノン」や、滑稽な調査官「チョーサン」、闇の女王「サターン」は、後の魔法少女作品のサブキャラクター像に大きな影響を与えている。
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