柴田政人とアローエクスプレス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 08:18 UTC 版)
「アローエクスプレス」の記事における「柴田政人とアローエクスプレス」の解説
当時3年目の柴田政人とアローエクスプレスの出会い、皐月賞を前にしての乗り替わりは、年長の実力者に騎乗馬を掠われる若手騎手の悲哀を象徴する例として、そして柴田の飛躍の契機と、高松との強い結び付きを示すエピソードとして、しばしば語られている。 皐月賞の前、柴田に加賀武見への騎手変更が宣告された当日、柴田は内心で納得が行かず、夜になって深酒をして過ごした。そして高松の自宅に赴くと、「自分が何かミスをしたのか、言ってみてくれ」と涙ながらに高松を問い詰めた。この時柴田は殴られる覚悟であったというが、高松もまた涙を流し始め、「誰よりも自分が乗せてやりたいが、馬主もファンも許さない。アローは日本一になれる馬だから、日本一の騎手を乗せる。悔しかったら加賀武見を超える騎手になれ」と諭したという。 この言葉を受けて柴田も引き下がったが、この経験が後の柴田の騎手人生に取って大きな糧となった。その後柴田は数々の大競走を制し、1988年には全国リーディングジョッキーも獲得した。柴田は後に「僕は大レースでアローに乗れなかったお陰で、一人前の騎手になれた。一日も早く一人前の騎手になって、アローに恩を返したいという一念が、どうにか今の自分に繋がった」と感謝の念を語っている。時代の経過と共にフリーランスで活動する騎手が増えていく中、柴田は引退まで高松三太とその子・邦男の2代に渡って高松厩舎で騎手を続けた。また、柴田を降板させた伊達とも良好な関係を築いており、ファンタスト、ブロケードといった所有馬に騎乗してクラシック優勝を果たしている。
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