柴田政人と日本ダービー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 01:06 UTC 版)
柴田は馬事公苑の研修生時代、同期生と共にシンザンが優勝したダービーを現地観戦して以来、その華やかさに強く惹かれ、ダービーに騎乗することを目標のひとつとした。その後、デビュー3年目の1969年にダンデイボーイでダービーに初騎乗(23着)。しかし以後はアローエクスプレスの乗り替わり、皐月賞を制したミホシンザンの骨折休養などがあり、ほとんどの機会で有力馬に騎乗することができず、1993年まで18回の騎乗で 1988年コクサイトリプル、1991年イイデセゾンの3着が最高という成績であった。同年の頃より柴田は「ダービーを勝ちたい」と公言するようになり、柴田のダービー優勝はファンの関心事ともなっていった。 そして1993年のダービーにおいて、柴田はウイニングチケットに騎乗して初めてダービー1番人気の支持を受ける。ウイニングチケットは前走の皐月賞で繰り上がりの4着(5位入線)という成績に終わっており、1番人気の内容には「柴田に勝って欲しい」というファンからの応援の意味で投じられた馬券が相当含まれていたともされる。レースではこれに応えて優勝。通算19回目の騎乗でダービージョッキーの仲間入りとなった。直線では早めにスパートしたことと、ビワハヤヒデとナリタタイシンが後方から迫っていたことで「我慢してくれ、頑張れ」と叫び続けたといい、「あれほど大きな声を馬にかけたことはなかったです」と回顧している。ウイニングチケットはダービー以降総じて不振に終わったことから、「柴田政人にダービーを獲らせるために生まれてきた」とも言われた。
※この「柴田政人と日本ダービー」の解説は、「柴田政人」の解説の一部です。
「柴田政人と日本ダービー」を含む「柴田政人」の記事については、「柴田政人」の概要を参照ください。
- 柴田政人と日本ダービーのページへのリンク