金造仏
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「長崎県指定文化財一覧」の記事における「金造仏」の解説
鋳造によって作られた国指定重文の仏像は、五島市明星院の銅造如来立像、新上五島町極楽寺の銅造如来立像、対馬市黒瀬観音堂の銅造如来坐像、対馬市海神神社の銅造如来立像の4件がある。 名称位置指定日解説浄漸寺の銅造如来坐像 佐世保市上原町 浄漸寺 1999年2月17日 14世紀後半に高麗で鋳造されたと推測される全高60センチの如来像。来日の経緯は不明。慶長10年(1605年)平戸の勝音寺が焼失したため、本尊を浄漸寺に移したといわれる。昭和28年(1953年)盗難に遭い、その際に両手両耳が欠損した。 鷹島の銅造如来坐像 一体 松浦市鷹島町原免 1974年10月8日 江戸時代末期に漁師が引き上げた元寇沈船の仏像。軍船内に安置されていたとみられる。長らく海底に沈んでいたが、損傷は少なく、額の白毫も残存している。高麗前期の鋳造だが、表情や衣の表現が中国的で、印相も来迎印を取る。 黒崎釈迦堂の銅造如来形坐像 壱岐市郷ノ浦町新田触 高源院 1977年1月11日 高麗後期に鋳造されたと推測される全高67センチの如来像。像の底に釘跡が残っていることから、かつて底板が張られていたことが予想され、内部空洞に供物があった可能性も指摘される。指先を別の鋳型で鋳込み、本体に釘留めしている。 金蔵寺の銅造如来形坐像 壱岐市勝本町新城西触 金蔵寺 1977年1月11日 高麗後期に鋳造されたと推測される全高73センチの如来像。来日の経緯は不明。釈迦院本尊として迎えられ、本宮寺本尊を経て明治期に金蔵寺へ渡った。両手は全身とは別の鋳型で作られ、銅釘で留めてある。全身部の鋳込みはやや粗雑で補修痕もある。 大興寺の銅造如来形坐像(本尊他2躯) 対馬市厳原町久根浜 大興寺 1980年10月24日 高麗前期に鋳造されたと推測される全高78センチの本尊と、高麗後期~末期に追加された如来坐像2躯。追加如来と本尊に関連性はない。本尊の造形は新羅末期以後の動的な手足のポーズや鋭い表情が継承され、大型の像と相まって躍動的である。 普光寺銅造如来形坐像 対馬市峰町吉田 普光寺 1975年3月4日 元朝支配以後の高麗で鋳造されたと推測される如来像。来日の経緯は不明。頭頂が円錐形に尖っていること、襟の開きが狭いこと、裾のたわみが小さいことなど、ラマ教の仏像の影響を受け、温厚な高麗仏と異なった謹厳な姿をしている。 福泉寺金銅如来立像 対馬市厳原町久根田舎 福泉寺 1993年2月24日 8世紀後半に新羅で鋳造されたと推測される全高35センチの如来像。来日の経緯は不明。30センチ前後の如来立像は新羅盛期には少ないといわれる。光背が失われているほかには損傷は少なく、新羅仏特有の精緻な衣文や華美な台座装飾が伝わっている。 旧金泉寺の銅造如来坐像 松浦市星鹿町岳崎免 智福寺 2006年3月3日 高麗前期に鋳造されたと推測される如来像。来日の経緯は不明。金泉寺は明治5年(1872年)に廃寺となり、智福寺が保管している。大型の鋳造仏であるため、内側には鋳型の姿勢を保持するために並べられた長方形の型持ち跡が幾つか残っている。 大聖寺の銅造大日如来坐像 平戸市木場町 大聖寺 2004年2月25日 大聖寺を開山した住職の経歴を理由に、文禄・慶長の役で朝鮮から簒奪した渡来仏と長らく推測されていた平安後期の国産金造仏。穏やかな表情や平行の裳襞をはじめとする様式は典型的な藤原様式で、木彫仏全盛期の藤原時代には数少ない金造仏として重視される。 慈光寺の金銅阿弥陀如来坐像 松浦市御厨町中野免 慈光寺 2008年2月22日 昭和58年(1983年)に慈光寺の池に沈んでいたところを発見された高麗時代中期の像。本尊として安置されていた記録がないため、来日の経緯から池に投棄された事情まで一切の経歴は不明。釣り目ながら穏やかな表情を湛えた高麗期特有の姿をしている。 円通寺銅造薬師如来坐像 対馬市峰町佐賀 円通寺 1975年1月7日 高麗後期に鋳造されたと推測される如来像。光背と台座は失われ、代わりの台座に載せ替えられているが、像そのものは鍍金の剥離や本体の損傷も少なく、総数の少ない高麗後期の薬師如来の中でも希少な像である。 長崎晧台寺の大仏(毘盧舎那仏坐像及び基台) 長崎市寺町 晧臺寺 2012年2月24日 延宝5年1677年、逆流住職の発願で鋳造された全高3.6メートルの毘盧舎那仏。佐賀の鋳物師による作品とされるが、デザインは宝冠を頂き、朱で着色された唐風の坐像。蓮華を模した青銅の基台も同時に指定され、基台を含めると高さ6メートルを超える。 金谷寺の銅造菩薩形坐像 壱岐市郷ノ浦町物部本村触 金谷寺 1980年2月29日 高麗で鋳造されたと推測される全高73センチの像。ほぼ同型の像が糸島市の夷巍寺にあり、関連性が問われる。口元を結んだ謹厳な表情が一般的な高麗仏と違う特徴。首筋から胸を回る円状に小穴があり、かつて実際に瓔珞が挿してあったと想像される。 平戸市普門寺の金銅菩薩立像 平戸市木ヶ津町 普門寺 1986年1月10日 奈良時代末期に鋳造されたと推測される全高25センチほどの菩薩像。表現技法がパターン化され、天衣が肩に掛かっていないことや腹帯が途中で切れていることなど、奈良末期の写し崩れを踏襲している。蓮台と一体成型された鋳型で作られている。 法清寺の銅造菩薩立像 対馬市厳原町樫根 法清寺 1986年1月10日 朝鮮三国時代に鋳造されたといわれる手乗りサイズの銅像で、来日の経緯は不明。面長で彫り浅く、身を少しよじった細身の立像で、底の広い蓮華座に立つ。小型のために一つの鋳型で台座ごと鋳造され、脚部は省略されてつながっている。 観音寺の観世音菩薩坐像 対馬市豊玉町小綱 観音寺 1973年5月18日 元朝紀元の天暦3年(1330年)、高麗の浮石寺のために鋳造された旨が空洞内に納められた結縁文から読み取れる。来日の経緯は不明。高麗仏特有の穏やかな微笑を湛えつつも、衣紋の表現は細やかで、装飾性を志向していると考えられる。2012年に韓国人窃盗団に盗まれた。 銅造弥勒菩薩半跏思惟像 長崎市西坂町 26聖人記念館 1982年1月25日 朝鮮三国時代に鋳造されたといわれる手乗りサイズの銅像で、来日の経緯は不明。昭和55年(1980年)、隠れキリシタンの子孫が教会に寄進した。イエスの代わり仏として、救世信仰がある弥勒菩薩が崇拝されてきたことを示している。 牟田観音堂銅造半跏思惟像 松浦市星鹿町牟田免 1993年2月24日 朝鮮三国時代に鋳造されたといわれる手乗りサイズの銅像で、来日の経緯は不明。王冠や着衣、半跏思惟のポーズから弥勒菩薩と見なされる。長らく牟田免に伝わり、共同管理・共有財産とされる。小型のために装飾の省略や細部の溶解はある。 大興寺の銅造誕生仏 対馬市厳原町久根浜 大興寺 1980年10月24日 高麗前期に鋳造されたと推測される釈迦誕生像。4月8日の灌仏会にて甘茶を掛けるために用いられる。用途が限られるために細かな細工は少ないが、釈迦像の特徴を端的に表現している。蓮華の台座も含めて一つの鋳型で鋳造している。
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