来日の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 23:31 UTC 版)
「コリン・アレクサンダー・マクヴェイン」の記事における「来日の経緯」の解説
幕府は、1866年、英仏政府の協力の下に灯台建設を始めることになり、イギリス公使のハリー・パークスはイギリス政府に灯台建設技術者の派遣と、日本海域測量のために測量船の派遣を要請した。派遣された測量船シルヴィア号にはマクヴェインの友人であったウィリアム・マックスウェル (William Francis Maxwell, RN) が副艦長として乗船しており、18767年暮れに横浜に到着すると、マクヴェインに北方灯台局を管理するエジンバラのスティブンソン事務所 (David Stevenson engineer)) が灯台建設技師を募集することを知らせた。マクヴェインはアーチバルド・ブランデルとともに副技師として採用された。主任技師はリチャード・ヘンリー・ブラントン (Richard Brunton) 。 3ヶ月にわたる灯台建設の研修を受け、日本に渡航する直前にペニキュク (Penicuik) の大製紙工場主アレクサンダー・コーワンの末娘マリー・ウッドと結婚した。結婚証人は妻方の親戚であるグラスゴーの建築家キャンベル・ダグラス (Campbell Douglas) とエジンバラのカンスタブル出版社のアーチバルド・カンスタブル (Archibald Constable) 。 海軍水域測量局時代の同僚であったヘンリー・シャボー (Henry Scharbau) とウィリアム・チーズマンと、日本でよい仕事が見付かったら呼び寄せることを約束した。
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