来日から2年間 (1992 - 1993)
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「アロンゾ・パウエル」の記事における「来日から2年間 (1992 - 1993)」の解説
一方、セントラル・リーグ(セ・リーグ)の中日ドラゴンズは、1992年シーズンの開幕直前になって、外野手のマーク・ライアルがアメリカに帰国してしまう事態に見舞われた。これは、ライアルが左膝半月板損傷の重傷を負っていることが判明したためである。 このため、渉外担当の足木敏郎は新外国人を獲得するため、飯田幸夫調査役とともに渡米して新外国人の調査を行った。そのような中、球団OBのケン・モッカに「今からでも獲得できる日本向けの選手はいないか?」と相談したところ、前年から注目していたパウエルを紹介された。パウエルは当時、まだ27歳と若く、メジャー再昇格を諦めていなかったが、阪神タイガースでプレーしたセシル・フィルダーら、日本球界で活躍した先輩たちから「日本に行けるならチャンスだ」と聞かされ、来日を決断した。 足木はパウエルについて調査した結果、「日本向きの打者で、本人も日本でのプレーを希望している」という情報を得たため、代理人を通してマリナーズ球団および本人と交渉し、同年4月30日に入団が決定。日米両リーグおよびコミッショナーを通じて正式に獲得手続きが行われ、同年5月14日に支配下選手登録および一軍選手登録の手続きが行われた。年俸は35万ドル(約4,550万円ないし約4,700万円)・背番号は30で、球団および高木守道監督はパウエルに対し、「クリーンアップを打てる選手」と期待を掛け、主砲・落合博満の前後を打たせることを構想していた。また、リハビリ中のライアルが復帰してからはパウエルをライアルと併用する方針だったが、ライアルの代理人が金銭面などで球団にクレームをつけたため、球団側は6月1日付でライアルをウェイバー公示する手続きを取った。 入団から約3週間後の5月13日に来日すると、同月19日に広島市民球場で開催された二軍(ウエスタン・リーグ)の対広島東洋カープ(二軍)戦で2安打を打った。さらに、同月21日の対広島戦(広島市民球場)ではバックスクリーンに2本塁打を放ったが、同日は夜に一軍の中日対広島戦が同球場で開催されることもあって、その試合を観戦していた高木が一軍昇格を即決。同年23日に本拠地・ナゴヤ球場で開催された対読売ジャイアンツ(巨人)戦で一軍初出場を果たした。同年は88試合の出場で、来日当初は日本の投手の変化球に苦しんだが、最終的には規定打席不足ながら、打率.308・13本塁打・35打点を記録した。 1993年シーズン(年俸:7,000万円)は開幕当初からクリーンアップを期待され、3番打者を打ったが、4月18日に浜松球場で開催された対ヤクルトスワローズ戦の試合後、濡れた階段を踏み外す。この時、全体重が左脚の膝にかかったことで、左膝外側半月板を損傷し、6週間あまり戦線を離脱した。さらに9月下旬から10月初旬にかけ、立浪和義や落合に続いて死球で負傷欠場し、同年中に右肘・左膝を手術した。しかし、同年は97試合に出場して規定打席に到達。打率.317(セ・リーグ3位)・27本塁打・66打点と、チーム三冠王となる打撃成績を残し、長打率もリーグ1位の.579を記録した。同年9月2日、リーグ優勝を争っていたヤクルトとの試合(ナゴヤ球場)では同点で迎えた延長15回裏、無死満塁の好機で打席に入ったが、内藤尚行の前に空振り三振に打ち取られ、4番・落合、5番・彦野利勝も相次いで見逃し三振した。同年から1996年まで4年連続でセ・リーグのベストナインに選出された。同年オフ、主砲の落合がフリーエージェント (FA) で巨人に移籍した。
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