蒸気タービン船建造の経緯
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「比羅夫丸」の記事における「蒸気タービン船建造の経緯」の解説
このような状況に対し、日本鉄道は1902年(明治35年)頃から、青函航路直営化の検討を開始し、一時は750総トン級の小型汽船3隻の建造を計画していた。しかしその頃、北海道炭礦鉄道でも青森-室蘭間に連絡船を運航しようという動きもあり、日本鉄道では、1905年(明治38年)8月の株主総会で、今後20年間は他の追従を許さない連絡船ということで、従来計画より大型の1,100~1,500総トンで、航海速力も15ノット以上という当時としては破格の高速船3隻の建造を決定した。3隻建造により常時2隻運航との考えであった。 1905年(明治38年)10月、その船体構造設計を東京帝国大学助教授横田成年に、機関部設計を同助教授加茂正雄に依頼した。加茂はこの程度の大きさの船で15ノット以上となると、従来の蒸気レシプロ機関では機関室が過大となるため、既にイギリスの海峡渡船で実績を上げていた蒸気タービンの採用を曾我社長に進言した。これを受け、日本鉄道では当時の学界・業界の識者の意見も聞き、熟慮検討の結果、同年12月末、蒸気タービン採用を正式に決定した。しかし当時、加茂自身も蒸気タービンについての知識は文献によるもののみで、タービン機の製作上の仕様書を書くすべはなく、主機としてパーソンス式を採用することとし、プロペラに関しては全て製造者に一任した。 1906年(明治39年)2月末に設計仕様書、図面が完成し、これに基づく国内外の造船各社から建造費見積書の提出を受け、8月20日にイギリスのウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社を選択することに決定した。しかし1906年(明治39年)3月30日には鉄道国有法が公布され、日本鉄道の買収は1906年(明治39年)11月1日と指定されたため、逓信省鉄道作業局の指定により、上記造船各社からの提出書類を全て逓信省管船局に提出して再審査を受ける必要が生じ、同年8月25日これを申請した。この再審査は9月17日に終了し、鉄道作業局から、ウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社またはイギリスのフェアフィールド社のいずれを選んでも異議なし、とされたため、鉄道作業局からの修正覚書に基づき、竣工期限をフェアフィールド社と同じ11ヵ月に短縮のうえ、日本鉄道は1906年(明治39年)10月1日、ウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社代理人高田商会と、横浜港引き渡し、最大速力18ノット以上という条件で、1,500総トン級の海峡渡船建造の契約を締結した。しかし、船価の関係で2隻の建造に留まった。この1ヵ月後の11月1日には日本鉄道は国有化され、この建造契約も鉄道作業局に継承されたが、同局は翌1907年(明治40年)4月1日には帝国鉄道庁に改組されている。工事監督には、当時イギリス滞在中であった逓信省技師で後に鉄道院の船舶課2代目課長を務めた松長規一郎が、また設計を担当した横田、加茂両助教授も官命で欧米留学することとなり、それぞれ逓信技師兼務として監督を嘱託された。 ウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社では、建造契約締結後直ちに工場内設計を開始し、翌1907年(明治40年)1月に起工、7月10日に進水、10月15日には艤装工事も完了し、ダンバートンのウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社から自航でクライド川を下り、対岸グリーンノックのスコット造船所に入渠して船底塗装し、10月16日から24日にかけ各種試験を行った。比羅夫丸は3軸船で各軸の馬力や回転数に差があるため、プロペラの選定が難しく、予め3枚羽根と4枚羽根のプロペラを製作し、各種組み合わせて取り付け、試験を重ね、中央を3枚羽根、両側を4枚羽根として19.1ノットの最大速力を記録した。 1907年(明治40年)10月29日にはイギリスでの全ての工事、検査等を済ませ、日本への回航のためダンバートンを出港した。比羅夫丸は海峡渡船のため航続距離が短く、石炭庫容量は90.9トンと小さいため、各船艙に積める限りの石炭を積み込んでの航海となったが、天候に恵まれ、途中アルジェ、ポートサイド、コロンボ、シンガポールと寄港しながらの順調な航海となった。しかし、シンガポールを出港して、あとは横浜まで直航というところで、北東の強い季節風に阻まれ、うち4日間は暴風に見舞われ一向に前へ進めず、錨鎖庫に流れ込んだ海水が非水密の隔壁を越えて第1船艙に浸水する事故もあり、給炭のため、やむなく香港に寄港し、横浜へは12月26日到着した。なお、比羅夫丸就航に際し、蒸気タービンの取り扱いおよび補修のできる機関長資格者が必要なため、この回航に先立つ1907年(明治40年)7月、商船学校教諭の下田文吾が帝国鉄道庁技師兼任としてイギリスへ派遣され、比羅夫丸・田村丸建造中のウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社で実習見学を行い、この回航には機関長として、また唯一の日本人として乗り組み、就航後は初代機関長を務めた。 翌1908年(明治41年)1月7日からは日本での入渠を伴う関係官庁の各種検査を受け、2月4日には東京湾で試運転を行ったが17ノットしか出ず、2月7日には代理店の高田商会が再度試運転を行うも同様の結果で、ウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社にその旨を電報で問い合わせ、試運転海域の水深を伝えたところ、「その水深ならその速度が正しい」との返電、水深が浅すぎたのであった。改めて2月13日に予備運転、2月17日に公式試運転を行い、イギリスの良質炭と熟達した火夫で達成した19.1ノットには及ばなかったものの、保証速力の18ノットを超える18.36ノットを達成できたため、2月20日帝国鉄道庁に引き渡され、2月27日横浜港を出港し2月29日青森港に到着、3月7日、青森10時発、函館14時着の下り便より就航した。 同時期、長崎の三菱合資会社 三菱造船所では、東洋汽船の天洋丸(13,454総トン、19,000軸馬力、20.6ノット) がイギリスから輸入したパーソンス式反動タービンを主機として建造中で、その竣工は1908年(明治41年)4月22日となったため、2月20日横浜引き渡しの比羅夫丸が日本初の蒸気タービン船の栄誉を担うこととなった。また同造船所では同年9月に、日本海軍初の蒸気タービン艦となるイギリス製パーソンス式反動タービン主機搭載の通報艦最上(常備排水量1,350トン、8,000軸馬力)が竣工している。
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