蒸気タービン船建造の経緯とは? わかりやすく解説

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蒸気タービン船建造の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 22:57 UTC 版)

比羅夫丸」の記事における「蒸気タービン船建造の経緯」の解説

このような状況対し日本鉄道1902年明治35年)頃から、青函航路直営化の検討開始し一時750総トン級の小型汽船3隻の建造計画していた。しかしその頃北海道炭礦鉄道でも青森-室蘭間に連絡船運航しようという動きもあり、日本鉄道では、1905年明治38年8月株主総会で、今後20年間は他の追従許さない連絡船ということで、従来計画より大型の1,100~1,500総トンで、航海速力15ノット以上という当時としては破格高速船3隻の建造決定した。3隻建造により常時2隻運航との考えであった1905年明治38年10月、その船体構造設計東京帝国大学助教授横田成年に、機関部設計を同助教授加茂正雄依頼した加茂この程度の大きさの船で15ノット以上となると従来蒸気レシプロ機関では機関室過大となるため、既にイギリス海峡渡船実績上げていた蒸気タービン採用曾我社長に進言した。これを受け、日本鉄道では当時学界業界識者の意見聞き熟慮検討結果同年12月末、蒸気タービン採用正式に決定した。しかし当時加茂自身蒸気タービンについての知識文献よるもののみで、タービン機の製作上の仕様書を書くすべはなく、主機としてパーソンス式を採用することとしプロペラに関して全て製造者一任した。 1906年明治39年2月末に設計仕様書、図面完成し、これに基づく国内外造船各社から建造見積書提出を受け、8月20日イギリスのウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社を選択することに決定した。しかし1906年明治39年3月30日には鉄道国有法公布され日本鉄道買収1906年明治39年11月1日指定されたため、逓信省鉄道作業局指定により、上記造船各社からの提出書類全て逓信省管船局に提出して再審査を受ける必要が生じ同年8月25日これを申請した。この再審査9月17日終了し鉄道作業局から、ウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社またはイギリスフェアフィールド社のいずれを選んで異議なし、とされたため、鉄道作業局からの修正覚書に基づき竣工期限フェアフィールド社と同じ11ヵ月短縮のうえ、日本鉄道1906年明治39年10月1日、ウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社代理人高田商会と、横浜港引き渡し最大速力18ノット以上という条件で、1,500総トン級の海峡渡船建造契約締結した。しかし、船価の関係で2隻の建造に留まった。この1ヵ月後の11月1日には日本鉄道国有化され、この建造契約鉄道作業局継承されたが、同局は翌1907年明治40年4月1日には帝国鉄道庁改組されている。工事監督には、当時イギリス滞在であった逓信省技師で後に鉄道院船舶2代目課長務めた松長一郎が、また設計担当した横田加茂両助教授官命欧米留学することとなり、それぞれ逓信技師兼務として監督嘱託された。 ウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社では、建造契約締結後直ち工場設計開始し、翌1907年明治40年1月起工7月10日進水10月15日には艤装工事完了しダンバートンのウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社から自航でクライド川下り対岸グリーンノックのスコット造船所入渠して船底塗装し10月16日から24日にかけ各種試験行った比羅夫丸は3軸船で各軸の馬力回転数に差があるため、プロペラ選定難しく、予め3枚羽根と4羽根プロペラ製作し各種組み合わせて取り付け試験重ね中央3枚羽根両側を4羽根として19.1ノット最大速力記録した1907年明治40年10月29日にはイギリスでの全ての工事検査等を済ませ日本への回航のためダンバートン出港した比羅夫丸海峡渡船のため航続距離短く石炭容量は90.9トン小さいため、各船艙積め限り石炭積み込んで航海となったが、天候恵まれ途中アルジェポートサイドコロンボシンガポール寄港しながらの順調な航海となった。しかし、シンガポール出港して、あとは横浜まで直航というところで、北東の強い季節風阻まれ、うち4日間は暴風見舞われ一向に前へ進めず、錨鎖庫に流れ込んだ海水が非水密隔壁越えて第1船艙浸水する事故もあり、給炭のため、やむなく香港寄港し横浜へは12月26日到着した。なお、比羅夫丸就航際し蒸気タービン取り扱いおよび補修のできる機関長資格者必要なため、この回航先立つ1907年明治40年7月商船学校教諭下田文吾帝国鉄道庁技師兼任としてイギリスへ派遣され比羅夫丸田村丸建造中のウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社で実習見学行い、この回航には機関長として、また唯一の日本人として乗り組み就航後初代機関長を務めた。 翌1908年明治41年1月7日からは日本での入渠を伴う関係官庁各種検査を受け、2月4日には東京湾試運転行った17ノットしか出ず2月7日には代理店高田商会再度試運転を行うも同様の結果で、ウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社にその旨電報問い合わせ試運転海域水深伝えたところ、「その水深ならその速度正しい」との返電水深浅すぎたのであった改め2月13日予備運転、2月17日に公式試運転行いイギリス良質炭と熟達した火夫達成した19.1ノットには及ばなかったものの、保証速力18ノット超える18.36ノット達成できたため、2月20日帝国鉄道庁引き渡され2月27日横浜港出港し2月29日青森港到着3月7日青森10時発、函館14時着の下り便より就航した同時期、長崎三菱合資会社 三菱造船所では、東洋汽船天洋丸(13,454総トン19,000軸馬力、20.6ノット) がイギリスから輸入したパーソンス反動タービン主機として建造中で、その竣工1908年明治41年4月22日となったため、2月20日横浜引き渡し比羅夫丸日本初蒸気タービン船栄誉を担うこととなった。また同造船所では同年9月に、日本海軍初の蒸気タービン艦となるイギリスパーソンス反動タービン主機搭載通報艦最上常備排水量1,350トン、8,000軸馬力)が竣工している。

※この「蒸気タービン船建造の経緯」の解説は、「比羅夫丸」の解説の一部です。
「蒸気タービン船建造の経緯」を含む「比羅夫丸」の記事については、「比羅夫丸」の概要を参照ください。

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