背景と軍備増強
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 07:19 UTC 版)
「ソビエト連邦による満洲侵攻」の記事における「背景と軍備増強」の解説
「アジアでの第二次世界大戦の終幕(英語版)」も参照 日本の勝利に終わった1905年の日露戦争とそれに伴うポーツマス条約は、1931年9月の満洲事変と日本による満洲侵攻(英語版)を含むその後の出来事と関連し、日本は最終的に朝鮮、満洲、南樺太の支配を獲得した。1930年代後半には、多くの日ソ国境紛争があり、最も重要な張鼓峰事件(1938年7月から8月)とノモンハン事件(1939年5月から9月)は、1941年9月の日ソ中立条約の原因となった。中立条約は国境紛争から軍事力を解放し、ソ連が独ソ戦に集中することが可能になると同時に日本も東南アジアや太平洋地域への進出に集中することが可能となった。 スターリングラード攻防戦での成功と、最終的なドイツの敗北が益々明白になってくると、スターリンが日本を糾弾する演説を出すという公的な面と、極東では軍事力と物資を増強するという「私的」な面の両方で、日本に対するソ連の態度は変わった。1943年11月のテヘラン会談 では、スターリン、チャーチル、ルーズベルトは、ドイツが降伏した時点でソ連が対日参戦することに合意した。スターリンはジレンマに直面し、彼は二正面作戦を是が非でも避けたかったが、ヨーロッパと同様に極東でも利益を引き出すことを望んだ。スターリンが二正面作戦なしに極東で利益を出せる唯一の方法は、日本より前にドイツが降伏することだった。 日ソ中立条約のため、ソ連は太平洋戦争勃発後にソ連領に不時着・上陸した連合軍の航空機搭乗員を抑留する政策を取っていたが、通常一定期間の後に「脱出」が認められた。ドイツの敗北前にもかかわらず極東ソ連軍の兵力増強は着実に加速していった。1945年初めまでにドイツの敗北に先んじてソ連が攻撃する事はなかったが、満洲侵攻を準備している事は日本側にとっても明白だった。日本は太平洋での戦況に加えて、いつどこでソ連が対日参戦してくるか判断する必要があると悟った。 1945年2月のヤルタ会談では、特にドイツ降伏後3か月以内に対日参戦することへ同意する代わりに、スターリンは南樺太や千島列島の占領、満洲における権益をルーズベルトから確約した。1945年3月中旬には、日本にとって太平洋戦争の状況はますます厳しくなり、南方地域の戦闘を支援するため満洲から精鋭部隊を抽出していった一方、ソ連は極東ソ連軍の増強を続けた。ソ連は日ソ中立条約を更新しないことを決めていた。日ソ中立条約の条項には条約を廃棄する場合は期間満了の1年前には通知するよう求めていたため、ソ連は4月5日に日本へ条約延長を希望しない旨を通知した。これは日本に大きな懸念を抱かせたが、条約はあと1年間有効なので何ら野心はないと日本側を説得した。 1945年5月8日のドイツ降伏はヤルタ会談での合意をソ連が履行する場合、8月9日までに対日参戦する必要がある事を意味した。日本は今や唯一の枢軸国であったが、ソ連との和平を維持して日ソ中立条約の延長を希望しており、これを軸として連合国との講和を画策していた。ヤルタ会談以来、日本は日ソ中立条約を延長すること、そして連合国との和平交渉をソ連に仲介してもらうためソ連に繰り返し働きかけていた。ソ連はこうした日本の期待を失望させないよう、可能な限りプロセスを長引かせるのと並行して侵攻作戦の準備が続けられた。1945年4月から政権を担った鈴木貫太郎内閣の役割の一つは、無条件降伏以外の条件付きの講和を試みることだった。6月下旬、日本はソ連に連合国との和平交渉を仲介してもらうため具体的な提案を行い、その見返りとして南樺太の返還や北千島列島の領有など非常に魅力的な譲歩を申し出た。スターリンがこの交渉内容に興味を示したので日本はソ連の反応を期待したが、ソ連は提案に対する回答を避け続けた。1945年7月16日から8月までポツダム会談が開かれた。7月24日にソ連は日本にいた駐日ソ連大使館員とその家族を呼び戻した。7月26日の会談でチャーチル、トルーマン、蔣介石によってポツダム宣言が提示され、日本に無条件降伏を要求した。日本はポツダム宣言にスターリンの署名がない事を理由にソ連からの回答を待ち続け、宣言への明確な返答を避けた。 日本はシベリア鉄道の往来と満ソ国境でのソ連軍の活動を常時監視しており、参謀本部では8月下旬から9月までに満洲への侵攻準備が完了するとみていた。それと対照的に関東軍総司令部では情勢に楽観的でソ連軍の準備は10月以降までかかるとみていた。国境地帯でのソ連軍の活発な活動は把握していたが、実際にはどの時点で侵攻してくるかについて現実的な考えや直接的な証拠を持たなかった。日本はソ連の侵攻作戦が1945年8月下旬から1946年春までの間と見積もったが、ソ連軍最高司令部スタフカは1945年8月半ばの侵攻を計画しており、密かに90個師団にまで兵力増強を行っていた。兵力輸送に伴う鉄道網への負担を避けるため、物資を満載したトラックでシベリアを横断した。 1945年8月8日午後11時過ぎ(モスクワ時間午後5時過ぎ)、モスクワの佐藤尚武駐ソ大使はヴャチェスラフ・モロトフ外相から対日宣戦布告を言い渡され、9日午前1時に侵攻が始まった。
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