生い立ちと前半生
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ベルゲンに生まれる。父ヨハン(Johan Storm Bull)は息子を聖職者にしたがったが、ブルは音楽の道に進むことを望んだ。4~5歳にして、母親が口ずさんだ歌をヴァイオリンで弾くことができた。9歳で、ベルゲン劇場管弦楽団の第1ヴァイオリンを担当し、ベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団と共演してソリストも務めた。18歳の時、オスロ大学に行かされるが、試験に落第してしまう。クリスチャニアの音楽院にも籍を置き、1828年に院長のヴァルデマル・トラーネ(Waldemar Thrane)が病死すると、音楽院とクリスチャニア劇場管弦楽団を監督した。また、ヘンリック・ヴェルゲランと親交を結んだ(ヴェルゲランは後にブルの伝記作家となった)。法学を学ぶふりをしてしばらくドイツに過ごした後、パリに移るが、最初の1~2年は羽振りが悪かった。1832年に、モラヴィア出身のヴィルトゥオーゾ、ハインリヒ・ヴィルヘルム・エルンストとパリで同室になり、パガニーニ流の演奏様式を手引きされる。ついには自身も上級のヴィルトゥオーゾとして成功を収め、何千回も演奏会を行なった(1837年だけでもイングランドにおいて274回もの演奏会を開いている)。ブルは非常に有名になり、巨万の富を得た。パリでヴィヨームに師事すると、弦楽器職人としても頭角を顕した。アマティやガスパロ・ダ・サロ、グァルネリ、ストラディヴァリらの数々の優れたヴァイオリンやヴィオラを蒐集しており、1574年頃にサロがオーストリア大公フェルディナント2世のために制作したヴァイオリンの逸品も所有していた。グァルネリ・デル・ジェズーは、ブル未亡人によってベルゲン国立楽器博物館に遺贈されている。 ノルウェーでロマン主義的な民族主義が擡頭すると、ブルもそれにとりつかれ、ノルウェーがスウェーデンから分離して独立国家になるという考えに賞賛を送った(ノルウェーの独立は1905年になって実現される)。そのために、演奏会ではさまざまなノルウェー民謡を演奏した。1850年には、デンマーク語よりもノルウェー語を用いる演劇のための最初の劇場「ベルゲン・ノルウェー劇場(Det Norske Theater in Bergen)」(現在は「国民舞台(Den Nationale Scene)」に改称)の創設者の一人に名を連ねた。 1858年の夏に、当時15歳のエドヴァルド・グリーグと出逢う。ブルはグリーグ家と親交があり、ブルの兄弟はグリーグの母方のおばと結婚している。ブルはグリーグの才能を見出すと、その両親に、息子をライプツィヒ音楽院に入学させて才能を伸ばしてやるように説得した。 ロベルト・シューマンは、ブルは最も偉大なヴィルトゥオーゾの中の一人であり、演奏の速さと明敏さは、ニコロ・パガニーニの域に達していると書き残したことがある。ブルはフランツ・リストとも親交があり、何度か共演したことがあった。
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生い立ちと前半生
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「カール・ヴァイグル」の記事における「生い立ちと前半生」の解説
ウィーンに生まれる。父親ルートヴィヒは銀行家で、母親はガブリエーレという名(愛称エラ、旧姓シュタイン)であり、ともにオーストリア=ハンガリー帝国領テメシュヴァール(現ルーマニア領ティミショアラ)の上流階級の出身であった。ブルジョワジーである両親を通じて少年時代から音楽に親しみ、家族ぐるみで付き合いのあったアレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーから作曲の手解きを受けている。 ウィーンのフランツ・ヨーゼフ・ギムナジウムでマトゥーラ(オーストリア版のアビトゥーア)に合格した後、1899年にウィーン大学に進み、グイード・アドラーに師事して音楽学の学習を開始した。併行して、ウィーン音楽院においてアントン・ドーアにピアノを、ロベルト・フックスに作曲を師事している。1903年にウィーン大学で学位を取得すると、博士号取得のために、ベートーヴェンの同時代の作曲家、エマヌエル・アロイス・フェルスターについて研究論文の作成に取り掛かる。この間に、同じく音楽学者の卵であったアントン・フォン・ヴェーベルンや、当時はまだ後期ロマン派音楽様式で作曲していたアーノルト・シェーンベルクと知り合いになっている。 シェーンベルクとの交流は、たとえいつでも互いに称賛の気持ちを育んだわけではないにせよ、ヴァイグルのその後の全生涯にわたって続けられた。シェーンベルクは、確かにヴァイグルよりはいくらか年上であったが、すでにその世代の泰斗となっており、無調を通じて新しい作曲技法による表現の可能性を探求していた。それでもシェーンベルクは、たとえヴァイグルが相変わらず後期ロマン派音楽の感傷性に囚われていて、十二音技法に同調することはできないと判断したにしても、若い同僚の方針に敬意を払ったのであった。 1903年に、ツェムリンスキーやシェーンベルクと共同で、グスタフ・マーラーを名誉総裁に迎えて「創造的音楽家協会」を設立し、その会員となった。同協会は、1904年と1905年に、室内楽だけでなく、交響楽も含めた一連の演奏会を主宰しており、例えばツェムリンスキーの交響詩《人魚姫》とシェーンベルクの交響詩《ペレアスとメリザンド》の初演を実現したほか、リヒャルト・シュトラウスの《家庭交響曲》やマーラーの《亡き子をしのぶ歌》と《少年の不思議な角笛》、ハンス・プフィッツナーやマックス・レーガー、ブルーノ・ワルター、そしてヴァイグルらの室内楽をプログラムに載せた。 同じく1904年には、父親の死後、マーラーによってウィーン宮廷歌劇場の独唱者用コレペティトゥーアに雇われ、レオ・スレザークやロッテ・レーマン、ゼルマ・クルツらと活動を共にした。当時ヴァイグルは、身近なところでマーラーの音楽作品を熱心に追いかけてその崇拝者となり、死の寸前に次のように書き残すこととなった。「今でもあの頃を忘れない。グスタフ・マーラーの下で働いていたあの頃。生涯で一番ためになったあの時期」。歌劇場での任務を通じて自らも声楽曲への霊感を受け、その後は数多くの歌曲や合唱曲を手懸けることになった。 1904年から1906年までの宮廷歌劇場での任務を終えると、第一次世界大戦勃発まで、フリーランスの作曲家としてウィーンに過ごした。1907年にマーラーの推薦状を得て、ウィーンを去ってニューヨークのメトロポリタン歌劇場に赴任している。マーラーの義弟でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターだったアルノルト・ロゼーともこの頃に知り合いとなり、《弦楽六重奏曲》を1907年に、《弦楽四重奏曲 第1番 イ長調》を1910年にロゼー四重奏団に初演してもらうことができた。 1910年はヴァイグルにとって全く特別な一年となった。ヨハン・シュトラウス2世未亡人アデーレの住まいで声楽家のエルザ・パツェラーと知り合いになって結婚し、その上《弦楽四重奏曲イ長調》作品4に対してウィーン楽友協会よりベートーヴェン賞を授与された。さらに、ウニヴェルザール出版社との協力関係が始まり、《弦楽四重奏曲イ長調》作品4や《弦楽四重奏曲ト長調》作品31、《交響曲 第1番》など、多くの作品が出版された。1911年5月17日、マーラーの命日の前日に、娘マリアが誕生する。1912年に、それまでハンガリー国籍であったが、市民権を取得してオーストリア国民となる。1913年にはエルザ夫人と離婚して、1914年には軍に徴兵された。 終戦後の1918年に新ウィーン音楽院の音楽理論教授ならびに作曲法教授に任命され、ウィーンの作曲界や教育界から高い尊敬を勝ち得た。新しい職務や、門人のピアニスト、ヴァレリー・ピックとの再婚は、新たな創作の励みとなり、楽壇における立場は鰻上りであった。1922年に八部合唱のための《賛歌(Hymne)》によって、フィラデルフィア・メンデルスゾーン合唱団より賞金を授与され、1924年には、パウル・ヴィトゲンシュタインに依嘱された交響的カンタータ《世俗の祭り(Weltfeier)》(マインツにてショット社出版)によって、ウィーン市賞を授与された。この頃のヴァイグル作品の演奏者に、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(《幻想的間奏曲》、《喜劇的序曲》)、ジョージ・セル、ミェチスワフ・ホルショフスキ、ブッシュ四重奏団(《弦楽四重奏曲 第5番 ト長調》作品31)、コーリッシュ四重奏団(《弦楽四重奏曲 第2番》)、エリーザベト・シューマンとロゼー四重奏団(《ソプラノと弦楽四重奏のための5つのリート》)が挙げられる。 1926年に息子ヨハネス(別名ジョン)が生まれる。1928年にはオーストリア政府より教授の肩書を授与され、1929年にはハンス・ガルの後任講師としてウィーン大学音楽学研究所で和声法と対位法を指導した。当時の門人に、ハンス・アイスラーやエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト、エーリヒ・ツァイスルらの名が見出される。
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