生い立ちと初期の職歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 15:26 UTC 版)
「トーマス・J・ワトソン」の記事における「生い立ちと初期の職歴」の解説
トーマス・ワトソンとジェーン・フルトン・ホワイト・ワトソンの唯一の息子としてニューヨーク州キャンベルで生まれた。上に4人の姉がいる。父はニューヨーク州の南部中央、エルマイラから西に数マイルのペインテドポストで農業と林業を営んでいた。ワトソンはキャンベルにある一家の農場で働きながら1870年代末ごろに近くの小学校 District School Number Five に通い始めた。10代になるとアディソンの Addison Academy に入学している。 職業教育を1日で放棄したワトソンは、エルマイラの Miller School of Commerce で1年間、経理とビジネスのコースをとった。1891年にその学校を退学すると、ペインテドポストの商店 Clarence Risley's Market で簿記係として週6ドルで働くようになった。1年後、近所の金物屋 (William Bronsons) の作ったオルガンとピアノを行商していたジョージ・コーンウェルについて行商するようになる。これがワトソンのセールスマンとしての原点である。コーンウェルがこの地を去ると、ワトソンは1人で行商するようになり、週に10ドルを得るようになった。その2年後、委託契約なら週に70ドル稼げることに気づく。この発見の衝撃は大きく、行商を辞めて近くの大都市バッファローに出ることを決意したほどだった。 バッファローで短期間だけ Wheeler and Wilcox のミシンのセールスマンを経験。トーマス・J・ワトソン・ジュニアの自伝には次のような記述がある。 ある日、父は販売契約成立を祝って道端の酒場で大酒を飲んだ。酒場が閉まったころ、彼は何もかも(馬と馬車と見本)を全て盗まれたことに気づいた。Wheeler and Wilcox は彼をクビにし、彼がなくした物の弁償を要求した。この話は当然ながら広まったため、父は別の定職を得るのに1年以上かかった。 後にワトソンは飲酒についてIBMで厳しい規則を実施する。ジュニアはさらに次のように記している。 この逸話は、父が数万人の従業員に規則を強制したことを説明するのに役立っただろうが、あまりにひどい話なのでIBMの伝承とはしなかった。 次の仕事は、評判の悪い興行師 C.B. Barron が創業した Buffalo Building and Loan Company の株を行商する仕事だった。生涯メソジストだったワトソンは、その仕事に就いたことを後悔した。Barron は集めた資金を持って失踪した。その次はバッファローで精肉店を開業したが、すぐに失敗し、ワトソンは金も職もない状況となった。 突然の肉屋経営は以下のような経緯になります。 このころ食料品のチェーンストアが流行り出したところで、ワトソンもブームにのり、バッファローに肉屋の店を持ちチェーンストアを作ろうとしました。 計画としては、店員を雇い店の経営を任せ、ワトソンは店からの儲けを再投資し資金を増やし、さらにC.B. Barron 行っていた株のセールスの手数料も含め、肉屋の資金にしていくという方法でした。こうして資金が大きくなり、次々と肉屋の店舗を作りチェーンストアとして機能させていくというものでした。 最初の店を開いて間もなくC.B. Barronがワトソンの資金まで横領して町から消え去ってしまい失敗に終わります。 ただこのとき肉屋の経営を店員に任せる際、売り上げを胡麻化されないようにNCRのキャッシュレジスターを信用買いしています
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