活動中期
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1980年代の半ばから後期の頃は、アリンはヘロインとアルコールの中毒で、手に入る薬物は大抵何でも使っていた。格好はみすぼらしく、体を洗うことも稀だった。また、この頃には、アリンはライブの前に緩下剤を飲み、排泄をするのがステージ・パフォーマンスの一つになっていた。アリンは自分の事を「最後の、本物のロックンローラー」と表現していた。この言葉はすなわち、ロックン・ロールは初めの頃、脅威、反権威、反逆の体現だったのが、企業とビジネスの関心事にすっかり成り変わってしまった事を言っている。アリンの音楽とパフォーマンスは、したがってロックン・ロールのルーツへの回帰を意味している。 アリンはそのライフスタイルの類似性より、自分の事を有名なカントリー歌手、ハンク・ウィリアムズに近い存在だと考えていた。二人は共に、一匹狼のアウトサイダーで、ドラッグの常習者で、持つものがほとんど無く(もしあるとしてもわずかで)、また二人とも国中を休むことなく旅していた。EP The Troubled Troubador に一部収録されている、GG アリンのアコースティック・ナンバーはウィリアムズに強く影響を受けている。彼はアメリカにおける代表的なカントリー・シンガーであるハンク・ウィリアムズ・ジュニアとデヴィッド・アラン・コーのFamily Tradition とLonghaired Redneck を、それぞれScumfuc Tradition、Outlaw Scumfuc というタイトルでカバーしている。 この間、アリンは Bulge(ボストンの3ピース・ハードコア・バンドで、アルバムFreaks, Faggots, Drunks and Junkies では Psycho の名前でクレジットされている)、The Aids Brigade(7インチEP Expose Yourself To Kids で有名)、The Holymen (You Give Love A Bad Name) とのコラボレートをしている。また、アリンはスポークン・ワードを始める。この様子を記録したビデオも、入手困難なものの存在する。この時期にアリンは、New Rose Records よりリリースされたアルバムMurder Junkies を ANTiSEEN と共にレコーディングする。このアルバムには10曲の暴力的なパンク・ナンバーと10個の狂暴なスポークン・ワードのトラックが収録されている。Freaks, Faggots, Drunks and Junkies を除いて、アリンはこのアルバムが、自分のペルソナと人生哲学を表しながら、最もきちんとレコーディングされたアルバムだと考えていた。Awareness Records よりリリースされたアルバムWar In My Head - I'm Your Enemy が Shrinkwrap よりリリースされたのもこの時期である。このアルバムは独特で、スポークン・ワードのコラージュに Shrinkwrap が演奏をのせた、45分に及ぶワン・トラックのみで構成されている。 80年代後半の一時期、ダイナソーJr.のJ・マスシスがリードギタリストとしてバックバンドに参加していた時期もあった。Jはこのことについて触れられるのが嫌なようで、後年、アリンとの活動についてインタビューを受けると「不快な経験だった」「あいつがクラブからつまみ出されて、僕たちは家に帰っていた」と言葉少なに証言している。 定職に就くことを考えていなかったアリンは、レコードを売ることで生計を立てていた。また、不法侵入や強盗のような犯罪行為も行っていたと話している。アリンはまた、シリアルキラーに心酔してもいた。彼はジョン・ウェイン・ゲーシーについての事を書き、獄中のゲーシーを何度も訪ねていた。ゲーシーはアリンの肖像を描いている。 この時期のアリンのパフォーマンスは、ライブ会場と音響機器に、しばしば結果として深刻な被害を与えるようなものになっており、ショウは警察やライブハウスのオーナーにより、数曲しかやらずに中断されるようになっていた。アリンは何度も暴行や公然猥褻罪によって告訴された。彼の絶え間ないツアーは逮捕や、骨折、敗血症やその他の外傷による長期入院により、必ず中止された。 アリンのパフォーマンスにおけるもう1つの特徴は、度々あった自殺予告だった。1988年にアリンは、1989年のハロウィンにステージ上で自殺するつもりでだという声明を、マキシマム・ロックン・ロール誌に寄稿している。彼はしかし、その時は刑務所の中にいた。彼はその後も、毎年自殺予告を続けたが、ハロウィンの日には彼は必ず獄中にいた。アリンはまた、自殺はその人が絶頂にある時にだけやるべきだ、なぜなら、そうすれば(最も弱い時でなく)最も力のある時にあの世に行く事ができるからだ、というような発言もしている。 1980年代の後期から1990年代初め頃には、アリンの服役は長期に及ぶようになっていた。特に長かったのは、1989年12月22日から1991年3月26日までのものだった。獄中で彼は、自分自身と、彼の言うところの「使命」への力を取り戻し、GG Allin Manifesto (1990) に取り掛かる。その間に、アリンの悪名はますます広まっていき、Geraldo、The Jerry Springer Show、The Jane Whitney Show への出演を果たす。 この時期の終わりには、アリンの容姿がおなじみのものになる。彼は髪を剃り、ジンギス・カンのように真ん中の口ひげを除き、髭を赤く染め、体中の毛を剃った。さらに、彼は体のあちらこちらに、下手糞で安物の、自家製タトゥーを加えてゆき、暴力的なステージ・パフォーマンスによって体中が傷だらけになっていた。
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活動中期
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1994年までにWeagleが脱退しMartin Fergusson (Ba)が加入、Galeaに代わりJon Levasseur (Gu)が加入する。このときのラインナップで1stアルバム『Blasphemy Made Flesh』をリリース。 このアルバムのライブツアーが成功した後、Thibault(Gu)が脱退(しかし脱退後2、3ヶ月の間はバンドのマネージャーを務めていた)し、Fergussonに代わってEric Longlois (Ba)が加入する。 1996年、スウェーデンのレーベルロング・アゲイン・レコードから2ndアルバム『None So Vile』をリリース。その後新たにギタリストとしてMiguel Roy (Gu)をバンドに迎える。 None So Vileのライブツアー後、ボーカルのLord Wormが英語教師の仕事に専念するためにバンドを脱退。また当時彼は、Cryptosyの音楽性に対する嫌気を顕にしたこともあるという。 1997年、Lord Wormが新たなボーカルとしてMike DiSalvo (Vo)を薦め、彼がバンドに加入。前者と異なり、グラインドコアを彷彿とさせる要素は控えめで、よりハードコアな歌唱を特徴とした。このメンバーでメタルフェスに参加したバンドは、センチュリー・メディア・レコードの目に留まることとなる。 1998年、センチュリー・メディア・レコードから3rdアルバム『Whisper Supremacy』をリリース。このアルバムのライブツアーは全米に渡って行われ、バンドの存在はより多くの人に知られることとなる。
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活動中期
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1989年、リードギタリストを募集していたメガデスにダレルが招かれたが、兄のヴィニーもドラマーとして一緒に加入することを要求したため、加入は実現せず。結局、メガデスはマーティ・フリードマンを新しいリード・ギタリストとして迎えた。同年、パンテラはアトランティック・レコード系列のアトコと契約。念願のメジャーレーベルに所属することになった。 1990年7月24日、5thアルバム『Cowboys from Hell -カウボーイズ・フロム・ヘル-』をリリース。この作品では類型的なスラッシュ・メタルの枠にはまったサウンドで目新しさはない方向性ではあったが、バンドの実力は向上を見せており、エクソダス、スイサイダル・テンデンシーズとツアーを行う。1991年9月にはモスクワで行われたライブフェスティバル「Monsters of Rock」にメタリカ、AC/DC、ブラック・クロウズと共演。 1992年2月25日、6thアルバム『Vulgar Display of Power -俗悪-』をリリース、全米チャート44位を記録する。アンセルモによる歌唱はハイトーンボイスから力強いハードコア系へと変わり、ギターサウンドもより重いものとなった。セールス面ではダブル・プラチナムを記録し、収録曲の「Walk」や「Mouth For War」、「Fucking Hostile」は代表曲となった。この時期からダレルはダイムバッグ・ダレル、レックスはレックス・ブラウンと名乗るようになる。同年7月には初の日本でのライブを行い、その後はブラック・サバスやアイアン・メイデンと共にヘヴィメタル・フェスティバル「Monsters of Rock」へ出演する。 1994年3月22日、7thアルバム『Far Beyond Driven -脳殺-』をリリース、全米・濠でチャート1位を獲得する。オリジナル・ジャケットは、ドリルで肛門を突き刺すというものであったが、規制を受けて頭蓋骨の頭部をやはりドリルが突き刺すというものへと変更された。5月にはホワイト・ゾンビをオープニング・アクトに迎え、2度目の来日公演を行った。6月4日には「Monsters of Rock」へ出演するが、音楽雑誌ケラングにおけるヴィニーのイラスト描写に対する不満をめぐって、ヴィニーとダレルは雑誌記者と殴り合いの喧嘩を起こす。さらに6月末には、アンセルモがライブ中にステージへ上がるファンを止めたガードマンに対して暴行をしたとして起訴される。翌日彼は5000ドルの保釈金を払って保釈された。裁判は3回にわたって延長されたが、1995年3月には彼が謝罪すると共に罪を認め、100時間の地域奉仕活動を命じられた。
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