李氏朝鮮
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李氏朝鮮時代は、最初期こそ仏教が保護されたものの、儒教の国教化を背景に、1406年、太宗の時代に徹底的な排仏政策が推し進められた。これによって、朝鮮の仏教教団と寺院、美術は大きな衰亡をみた。しかしながら、1549年、文定王后のもとで仏教が保護されるようになると、仏教美術は再び大々的に作られるようになった。 朝鮮時代の仏像美術に特筆すべき名品は高麗時代のものと比較すると少ないが、その一方で仏像制作に用いられる材料や図像は多様化した。朝鮮時代初期にはすでに、それ以前には用いられなかった木造や塑造による作例が見られ、17世紀にはこれらが主流となった。 仏教絵画においては、画題、素材、そして鑑賞方法にも多様化が見られた。当時描かれたものには、発願のための彩色絹本、寺院内部に描かれた堂内壁画、経典の紙本、さらに屋外での大人数による礼拝に用いられた掛仏幀(あるいは掛仏)、施食会に用いられた甘露幀といったジャンルが挙げられる。特に、掛仏幀と甘露幀は、貴族や僧侶のためというよりも大衆向けに作られていた。これらは、李氏朝鮮後期、17世紀以降に作例が多く見られるようになった。 達磨図 金明國(英語版)筆 仁祖時代 1636年~1637年、あるいは1643年 青谷寺霊山会掛仏幀 大韓民国指定国宝302号 慶尚南道晋州市青谷寺(朝鮮語版) 麻布着色 1772年 青谷寺文化博物館蔵 護法神図 高宗28年(1891年) ロサンゼルス・カウンティ美術館蔵 帝釈天、梵天、韋駄天の他、護法神や侍従が描かれている。
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李氏朝鮮
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1395年〜1905年までは李氏朝鮮による「戸籍帳籍」が取られた。しかし当初は高麗時代のものを踏襲するしかなく内情不安で人民の逃亡・流入が相次いだため、1401年頃から戸籍制度が本格的に整備された。
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李氏朝鮮
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中国本土の使臣によって私的に連れて行ったケースを含めると、朝鮮半島から献上された貢女は数えきれないほどの数にのぼると言われている。中国から貢女を選抜する使臣が訪れると、朝鮮では選抜機関を設置して、巡察使が各地を物色したが、民衆は激しく抵抗し、貢女候補になるや、娘の顔に薬を塗り傷を付けケースや出家させるケースもあり、幼児を嫁がせることまであったという。そのため、李氏朝鮮時代には「12歳以下の女子については婚姻を禁ずる」法令を下した。李氏朝鮮の太宗8年には、処女30人が選抜されたが、中国の使臣は「美しい女がいない」として罰しようとし、娘たちも指名を避けるため、障害があるかのように装い、太宗は「処女を隠した者、針灸を施した者、髪を切ったり薬を塗ったりした者など、選抜から免れようとした者」を罰する号令を下した。韓国で英雄視される世宗も「国内の利害のみならず、外国にも関係することなので、ただ(中国皇帝の)令に従うのみ」と述べ、世宗の時代に最も貢いだ女性の数が多かった。朝鮮日報によるとその史実は韓国国内では全く知られていない。 朝貢は高句麗と新羅に始まり、高麗が元に服属された以降より盛んに行われた。この事大主義外交の遺産は、中国や朝鮮半島で王朝が交代した明・清代にも引き継がれ、日清戦争が勃発するまで、中国朝鮮関係史の全体的な枠組みを定めることになった。特に太宗とその息子であり大王として韓国で最も評価されている朝鮮王である世宗の在位当時が朝貢も最も多かった時期であった。ソウル市西大門区の迎恩門(現在の独立門)が半島の朝貢残酷史を象徴している。恩ある中国の使臣を迎えるという意味で建てられたとこであり、半島の美女を貢女として連れていく中国大陸の使臣は鴨緑江付近の義州から非常に豪華なもてなしを受けていた。そして、朝鮮王は宮殿で使臣から明皇帝の勅書を受領した。多くの大陸からの使臣が朝鮮出身の内侍かつ宦官であるにもかかわらず、迎恩門に迎えにいくなど朝鮮王は礼儀を尽くさせられていた。中国から貢女を選抜する使臣が1-2カ月かかる貢女を選び出す期間は半島全土に婚姻禁止令が朝鮮王から下され た。13歳-25歳の未婚の女性が選抜対象で娘を持つ民は恐怖に震えた。明の永楽帝の使いが朝鮮半島から連れて行った権賢妃(恭献賢妃)ら宮女8人は愛憎による虚偽の毒殺騒動で明の宮中で惨劇を経験している。朝貢使臣の横暴も悩みの種であり、要求条件があまりにも厳しく、賄賂を渡さなければならなかった。1429年の勅使が帰国する時、賄賂の分量が200箱に達した。一箱あたり8人で運ばれ、運搬の行列は数kmに達した。賄賂を国家資金から調達したため、国家の蔵が大きく損なわれた。使臣団の随行員が朝鮮人を打ち殺すこともあった。 清国から完全独立を果たした後は制度としての献上は無くなったものの、この習慣から女性を攫い金銭目的で国内外へ人身売買する者が多数存在し、併合時代警察に逮捕される朝鮮人の数は日本人の100倍に上った。
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李氏朝鮮
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「監司」とも呼ばれ、李氏朝鮮最大の地方行政区画として全国に8つ設定された道の長官を指す。従二品の高給官僚で大臣級にあたる。地域行政の最高責任者として、守令と呼ばれる地方長官たちを指揮し、監督した。
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李氏朝鮮
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貞熹王后(慈聖大王大妃)孫の成宗の在位時:1469年 - 1476年 主な出来事:朝鮮初の垂簾聴政。恭恵王后の崩御。 文定王后(聖烈大王大妃)息子の明宗の在位時:1545年 - 1553年 主な出来事:乙巳士禍。 仁順王后(懿聖王大妃)養子の宣祖の在位時:1567年 - 1568年 主な出来事:士林派の権力拡大。 貞純王后(睿順大王大妃)義曽孫にあたる純祖の在位時:1800年 - 1803年 主な出来事:天主教信者への弾圧(辛酉邪獄)。 純元王后(明敬大王大妃)第1次:孫の憲宗の在位時1834年 - 1840年 主な出来事:勢道政治の繁栄期。 第2次:養子の哲宗の在位時1849年 - 1851年 主な出来事:三政の紊乱。 神貞王后(孝裕大王大妃)養子の高宗の在位時:1863年 - 1866年 主な出来事:大院君執政期の始まり。
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