李氏朝鮮における奴婢と白丁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 07:52 UTC 版)
起源については大別して、北方異民族説と政治犯説などが唱えられている。異民族説は高麗に帰化した中央アジア系の韃靼族が政治の混乱に乗じて略奪を繰り返したことや、低位の扱いを受けていた朝鮮族などが差別を受けるようになったのが白丁の起源であるとされているという説である。ほかに、杜門洞七二人忠臣たちの志操説、楊水尺から始まった説がある。 朝鮮半島での奴隷制度は箕子朝鮮時代に始まったとされ、高麗王朝以降では918年に奴隷制度が定められ、既成の奴婢構成のなかに反逆者家族が加えられるようになった。そして社会経済の発展に伴い奴婢の数を確保する必要から、1039年に高麗王朝の靖宗は奴婢世襲を強制する賤者隨母法を制定し、奴婢の世襲強制と反逆者家族の奴婢化を強めた。このような高麗時代までの朝鮮半島では、白丁は中国、日本と同じく無位無冠の良民を指す言葉であった。しかし、李氏朝鮮の時代に身分制度がさらに複雑化し、国王、両班、中人、常人、賤民(=奴婢)に大別され、白丁は賤民の下の最下位という枠外に位置づけられた。朝鮮半島では白丁は「백정」(ペクチョン/ ペッチョン)と呼び、七般公賤(官奴婢、妓生、官女、吏族、駅卒、獄卒、犯罪逃亡者)、八般私賤(巫女、革履物の職人、使令:宮中音楽の演奏家、僧侶、才人:芸人、社堂:旅をしながら歌や踊りで生計をたてるグループ『男寺党』、挙史:女連れで歌・踊り・芸をする人、白丁)と言われた賤民(非自由民)のなかで最下位に位置する被差別民を指す言葉になった。李氏朝鮮王朝になると、治国法の一つ〈刑典〉に、公賤と私賤に分けて公・私奴婢の身分と刑罰に関する綿密な条項を定め、さらに刑曹(法務省)の外局として、奴婢の帳籍と訴訟事務を管掌する掌隷院を設けた。また逃亡した奴婢を原状に戻すための時限立法〈奴婢推刷法〉を制定したりした。 1423年、屠畜業者などに対する差別を緩和するためとして、従来の人々に加えて、彼らも白丁と呼ぶようにした。だが元々白丁と呼ばれていた人々は彼らを「新白丁」と呼びながら相変らず差別し続け、蓋たり「白丁」自体が賤民のみを指す言葉になった。ちなみに 1592 年、文禄の役での王宮・慶福宮の放火犯人は秀吉軍だと信じられていれるが、実は混乱に乗じ掌隷院で管理していた奴婢や白丁の簿籍などの消滅を図った当事者たちの犯行であった。 朝鮮半島で白丁に強制された身分差別 族譜を持つことの禁止。 屠畜、食肉商、皮革業、骨細工、柳細工(編笠、行李など)以外の職業に就くことの禁止。 常民との通婚の禁止。 日当たりのいい場所や高地に住むことの禁止。 瓦屋根を持つ家に住むことの禁止。 文字を知ること、学校へ行くことの禁止。 他の身分の者に敬語以外の言葉を使うことの禁止。 名前に仁、義、禮、智、信、忠、君の字を使うことの禁止。 姓を持つことの禁止。 公共の場に出入りすることの禁止。 葬式で棺桶を使うことの禁止。 結婚式で桶を使うことの禁止。 墓を常民より高い場所や日当たりの良い場所に作ることの禁止。 墓碑を建てることの禁止。 一般民の前で胸を張って歩くことの禁止。(白丁歩きの強制) これらの禁を破れば厳罰を受け、時にはリンチを受けて殺害された。その場合、殺害犯はなんの罰も受けなかった。白丁は人間ではないとされていたためである。 白丁は大抵、都市や村落の外の辺鄙な場所に集団で暮らし、食肉処理、製革業、柳器製作などを本業にしていた。白丁と常民の結婚は許されておらず、一般の村に住めないなど居住地域も制限された。また、高価な日常製品の使用も禁止されていた。農業や商業に従事することは禁止されていたが、李氏朝鮮中期になるとこの規制は緩み、農業などに従事していた者もいたようである。一方、国の管理に属さない化外の民であったため、戸籍を持たず税金や軍布(徴兵の代わりに収める布税)なども免除されていた。奴婢が国により管理されていたのとは対照的である。支出や行動が厳しく規制される反面、本業による手数料などを得ることができたことや、両班階級が財産を没収することすら忌み嫌ったため、李氏朝鮮時代に繰り返し行われていた庶民に対する過酷な財産徴収なども受けず、李氏朝鮮の中では唯一資本蓄積が可能な階級だったとも言われている。 李氏朝鮮では法的には免賤と言われる白丁階級からの解放もあったが、滅多に行われなかった。1894年、高宗時代の甲午改革により、賤民の身分制度が法的には廃止されたが、差別待遇・偏見は相変わらず残った。結局白丁には戸籍がないので兵役や納税の義務もなかったし、管理対象として居住場所は制限され、移動の自由が相変わらずなかった。チョゴリ(上衣)の襟に白丁であることを示す黒い布をつけることが義務化された地域も残った。道を歩く時は、腰を屈めて早足で歩くという白丁歩きを強いられた。衣類制限もあり、絹の服を着ることは許されず、朝鮮の成人男性なら誰もが被るカッ(帽子)の代わりに、粗末な笠を被ることしか許されなかった。女性の白丁には、髪に簪を挿してはならないとされていた。さらに、婚礼時にも輿にも乗れず、遺体を棺で墓まで運ぶために使われる輿であるサンヨ(喪輿)すら禁止されていた。
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