最高裁判所の判断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/15 04:03 UTC 版)
最高裁は以下のように述べて、Xの主張に沿った判断を下し、福岡高裁に事件を差し戻した。 ブルドーザーの修理で、Xは材料の用意や作業の手間により修理代金相当の損失を受ける一方、Yは修理代金に相当する利得を得た。よって、Xの損失とYの利得との間に直接の因果関係があるといえる。これは、修理を受領した者がYでなかったとしても関係ない。 ただ、この修理はAの依頼によるもので、原告はAに対して修理代金債権を(不良債権とはいえ)取得する。よって、XはAに対して修理代金債権を取得するから、右修理によりYの受ける利得はいちおうAの財産に由来することとなり、XはYに対し右利得の返還請求権を有しないのを原則とする。 それでも、Aが無資力であるため、右修理代金債権の全部または一部が無価値であるときは、その限度で、Yの受けた利得はXの財産および労務に由来したものといる。 以上より、Xは、修理(損失)によりYの受けた利得を、Aに対する代金債権が無価値である限度において、不当利得として、Yに返還を請求することができる。
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最高裁判所の判断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 01:41 UTC 版)
これに対して最高裁は1963年5月15日に、憲法20条が信教の自由を基本的人権として何人にも保障したものであることを認めながらも、「およそ基本的人権は、国民はこれを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負うべきことは憲法一二条の定めるところであり、また同一三条は、基本的人権は、公共の福祉に反しない限り立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と、信教の自由の保障が絶対無制限のものではないことを示した上で、以下のように判断した。 「被告人の右加持祈祷行為の動機、手段、方法およびそれによつて右被害者の生命を奪うに至つた暴行の程度等は、医療上一般に承認された精神異常者に対する治療行為とは到底認め得ないというのである。しからば、被告人の本件行為は、所論のように宗教行為としてなされたものであつたとしても、それが前記各判決の認定したような他人の生命、身体等に危害を及ぼす違法な有形力の行使に当るものであり、これにより被害者を死に致したものである以上、被告人の右行為が著しく反社会的なものであることは否定し得ないところであつて、憲法二〇条一項の信教の自由の保障の限界を逸脱したものというほかはなく、これを刑法二〇五条に該当するものとして処罰したことは、何ら憲法の右条項に反するものではない。」
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最高裁判所の判断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 13:59 UTC 版)
「テキサス州対ジョンソン事件」の記事における「最高裁判所の判断」の解説
最高裁の意見は割れ、5対4の僅差で上記テキサス州法を適用してジョンソンを国旗冒涜により有罪とすることは合衆国憲法修正第1条に反するとされた。多数意見(法廷意見、以下「裁判所」)はウィリアム・J・ブレナン・ジュニア裁判官が執筆し、サーグッド・マーシャル、ハリー・ブラックマン、アントニン・スカリア及びアンソニー・ケネディの各裁判官がこれに加わった。多数意見に加わった上で、ケネディ裁判官は別に補足意見を書いている。 まず、裁判所は、合衆国憲法修正第1条が非言語的活動(non-speech acts)を保護の対象としているか否かという論点について検討した。なぜなら、ジョンソンは、言語的なコミュニケーションではなく国旗の冒涜によって有罪とされたからである。その上で、もし対象としているのであれば、ジョンソンによる国旗の焼却が表現的行為を構成し、その有罪判決について争うにあたって修正第1条の発動が許されるかを検討した。 「言論」(speech)について、その自由の剥奪を修正第1条は明示的に禁じているが、裁判所は、長きにわたって認められてきたように、その保護の対象が話す又は書く言葉にとどまるものではないことを改めて確認した。 裁判所は、「それによって思想を表現する意図があれば、個人の行うあらゆる種類の行為が際限なく『言論』とみなされ得るという見解」を否定しつつも、「意思伝達的要素を十分に備えた行為であれば、修正第1条及び第14条の射程に含まれる可能性がある」ことを認めた。そして、特定の行為が、修正第1条を適用するに足る意思伝達的要素を有するかを決するにあたり、裁判所は「特定の意思を伝達する意図が存在し、それを目にしたものが当該意思を理解できる蓋然性が認められるか」を問題にした。 裁判所は、その周囲の状況に照らし、ジョンソンが国旗を焼却した行為は、「表現的行為を構成し、修正第1条の発動が許される」と判断した。当該行為は共和党全国大会と時期を同じくして実施されたデモ行為の最後になされており、その表現的かつあからさまに政治的な性質は、そのように意図されたものであり、かつ極めて明白なものであるとした。その上で、一般的に、政府は表現的行為を制限するにあたり、書く又は話す言葉を制限する場合に比してより広範な裁量を持つものであるが」、他方で「それが表現的要素を持つからといって、特定の行為を禁止する」ことが許されるわけではないと結論付けた。 もっとも、テキサス州は、ジョンソンの行為がその本質において表現的であることを認めていた。そのため、裁判所によって検討された鍵となる論点は、表現そのものに対する規制ではない場合を対象としたより制限的でない緩やかな合憲性判定基準であるオブライエン・テスト(英語版)適用の可否を決する前提として、「テキサス州が、ジョンソンを有罪とする理由となる利益の存在を主張しており、それが表現の抑圧とは無関係なものであるか」否かであった。 公判において、テキサス州は次の二つの論拠によって、当該州法が合憲であると主張していた。まず第一に、州は治安侵害を予防するやむにやまれぬ利益(compelling interest)を有していたという点、第二に、州は崇拝の対象となっている国家の象徴を保護するやむにやまれぬ利益を有していたという点である。 しかし、第一の「治安侵害」に基づく正当性の主張に関し、裁判所は、「ジョンソンの国旗焼却によって、治安が現実に妨害された、又はそのおそれが生じたとはいえない」と判断し、そのことはテキサス州も同様に認めていた。裁判所は、国旗焼却には治安侵害を「誘発する傾向」があるとの根拠に基づき、これを罰し得るとするテキサス州の主張を排斥した。その判断にあたり、裁判所は「差し迫った非合法な行動」(imminent lawless action)を扇動するものである場合に限って言論を処罰し得るとした1969年のブランデンバーグ対オハイオ州事件の基準を引用した上で、国旗焼却は、差し迫った非合法な行動のおそれを必ずしも誘発するものではないとした。また、喧嘩言葉(英語版)(fighting words)の法理についても、ジョンソンの表現的行為は合理的な見物人(reasonable onlooker)であれば個人的な侮辱や格闘への誘引とみなすようなものではなかったとしてその適用を否定した。さらに、裁判所は、「治安侵害」を直接的に処罰するテキサス州法の規定が別に既に存在することから、国旗冒涜を罰することなく治安妨害の予防は達成し得ると指摘した。 また、第二の象徴としての国旗を保護する利益に関しては、「国家と国家の統一性の象徴」としての意味が否定されることに対する懸念自体が、国旗はそのような意味を有しない、あるいは国家としての統一性といったものは享受したくないという意思を伝達する個人との関係でまさに「自由な表現の抑圧」と関連するものであるから、まず本件はオブライエン・テストの射程外にあると判断した。 さらに、象徴の保護という利益によってジョンソンを有罪とすることが正当化し得るかという点については、テキサス州法は国旗の物理的一体性を損なう行為全般ではなく、意図的に他者を「著しく不快」にさせる(serious offense)ものに限って禁じていたところ、ジョンソンはそのような政府の政策に対する不満という修正第1条の価値の中核をなす表現をしたことによって起訴されたとし、かかる内容に基づく規制は「最も厳格な審査」(the most exacting scrutiny)に服さなければならないことを示した。そして、裁判所は、「修正第1条の根底に横たわる岩盤としての原理があるとすれば、それは、単に社会がある思想を単に不快又は不愉快と考えるからといって、政府が当該思想の表現を禁じることはできないということである」とした。その上で、「例え我々の国旗が関わっている場合であっても、(上記修正第1条の岩盤の原理に対する)例外は認められない……さらに、憲法の条文及びそれを解釈した判例のいずれにおいても、アメリカ国旗のみに当てはまる別個の法的範疇は示されていない……それゆえ、国旗を対象として、修正第1条で保護される諸原理の馬上槍試合(joust of principles)の例外を創出することは認められない」ことから、政府が象徴としての国旗を保護すべく努力する正当な利益を有するとしても、それは政治的抗議として国旗を焼却した者に刑罰を科すことが許されるということを意味するものではないとし、国旗冒涜を処罰して国旗を神聖化することは、国旗という表象が表している自由を希薄化することになる旨述べた。
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