日本民主主義人民共和国(北日本)
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「征途」の記事における「日本民主主義人民共和国(北日本)」の解説
有畑角次 日本民主主義人民共和国の初代首相。 戦前の共産党非合法時代を理論派の活動家として半世紀以上過ごした。戦前に投獄され、敗戦に伴う釈放の後に留萌-釧路線を越えてソ連軍に接触、豊原共産政権を樹立して初代首相に就任したが、祖国解放戦争の停戦後、政敵の川宮勝次にクーデターを起こされ失脚。有畑やその一派とみなされた者はことごとく拘束され、国家保安省庁舎の玄関ホールにおいて即決裁判を受け、その場で処刑された。 川宮勝次 豊原政権の情報機関兼秘密警察組織である国家保安省(通称NSD)初代長官。 共産党非合法時代は殺人(本人曰く「処刑」)も厭わない武闘派として活動していた経歴から戦後の釈放が遅れ、北日本の建国までに留萌-釧路線を越境することができなかった。このために初代首相になり損ねた川宮は、祖国解放戦争中から政敵である有畑に露骨な対抗意識を見せた。祖国解放戦争の停戦後、有畑首相一派をことごとく粛清して首相の座を奪い、腹心の滝川を長官に据えたNSDの威力を駆使して、1994年に病死するまで長期の独裁政権を敷く。 川宮哲夫 川宮勝次の子息。国家政治委員会副委員長。 父の威光を背景に国内では「若き指導者同志」と称される。一方、「女子大学」の名を借りた専用ハーレムを設けるなど豪奢で退廃的な振る舞いが目に余ることから、それを疎む実務官僚たちには忌避されており、彼らと父の後継者としての地位を争っている。権力争いを有利にするべく、軍を掌握している守と手を組む。 滝川源太郎 川宮勝次の後任のNSD長官。 日本帝国時代は極度の近眼により徴兵されず、砲弾を製造する軍需工場で過酷な労働を強いられるうちに共産主義に目覚めたと自称している。日本の分断後は単身で留萌-釧路線を北へ越え、川宮勝次の秘書官として頭角を現すと、川宮による政権掌握後はNSD長官として猛威を振るい、国内においては反動分子を容赦なく処刑し、またライバル機関である東京政権のSRIの活動を激しく牽制した。その正体は東京政権のスパイで、北日本建国当初から米軍やSRIに情報を伝えていた。 神重徳 史実では太平洋戦争終結後に北海道で行方不明となった大日本帝国海軍の将官。 本作では赤衛艦隊司令官(中将)として連合国の「アイアン・フィスト作戦」に対抗すべく駆逐艦隊を率いて出陣。第二次日本海海戦で〈やまと〉他連合軍艦隊に魚雷を命中させ、劣勢に陥ったソビエト連邦義勇艦隊を壊滅から救った。 源田実 史実では大日本帝国海軍の大佐で、太平洋戦争終結後に航空幕僚長を経て国会議員となった人物。 本作では人民空軍初代司令官(少将)として活躍。祖国解放戦争では藤堂守の上官に相当したが、いち早く赤い日本の政治体制に迎合した源田のことを守は機会主義者とみなし、快く思っていなかった。 アンドレイ・バラノヴィッチ・コンドラチェンコ ソ連軍特殊部隊スペツナズ隊員。通称はアリョーシャ。 ヴェトナム戦争時は少佐で北ヴェトナムに軍事顧問団の一員として送り込まれており、一個小隊を指揮して乗機を撃墜された藤堂守を救出したことにより、守と深い友誼を結ぶ。その後少将となり参謀本部特殊戦部長となった後、湾岸戦争時には大将となっており、イラクにソ連軍事顧問団団長として派遣され、イラクで守と共に米空母ミッドウェイ撃沈作戦を成功させる。その後、ソ連崩壊により軍事顧問として北日本に移り人民空軍特殊部隊の顧問を務めていたが、守に付き合い彼の決起に参加する。守の妻・サーシャはコンドラチェンコの実妹。二人いた息子は自らと同じスペツナズ隊員となったがアフガニスタン侵攻で戦死。以降妻は精神の均衡を崩して精神病院に入院して不仲となり、更にサーシャまで失った結果、コンドラチェンコ自身もアルコール依存症の兆候が出ている。 宗像考治 人民空軍大佐。藤堂守の副官であり腹心。 湾岸戦争においては中佐として対イラク軍事顧問団に所属。米空母ミッドウェイを撃沈した攻撃隊を指揮し、この功績により人民英雄の称号を持つが、共産党幹部の子弟というだけで医者になれた者たちが起こした医療過誤によって妻子を失っており、豊原政権打倒を企図する藤堂守の計画に賛同して決起に参加する。元来は優秀な戦闘機パイロットであるが、コンドラチェンコの指導による特殊部隊戦術を見事に体得し、川宮勝次の死とともに守やコンドラチェンコたちと決起する。 海軍作戦部長 赤衛艦隊の将官。 川宮勝次の死亡に伴う「統一戦争」勃発と北海道侵攻作戦の指揮の裏に隠された、藤堂守の豊原政権打倒を目論む意図に気づき賛意を示す。開戦後は自ら赤衛艦隊旗艦・解放に乗り込み、藤堂進の率いる水上打撃艦隊と戦い、戦死する。 本郷洋一 人民空軍大尉、第125防空中隊指揮官。 共産主義(というより川宮勝次)に心酔しており、反共的言動をやめない実父母をNSDに密告し逮捕させた。それ以降は党の英才教育を受け熱狂的な共産党員となり軍に入隊。1982年の南北休戦会談で「領空侵犯機」を撃墜する。その後暫く辺境に飛ばされていたが、2年後に戦略打撃軍へ転籍し、1993年には戦略打撃軍大佐として反応弾頭ミサイル実験施設司令になる。忠誠心のみが取り柄の無能な人物だが、反応弾頭を管理しているため、実務官僚との権力争いを有利にするべく動いていた川宮哲夫によって派閥に取り込まれ、その見返りとして少将に昇進する。
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