日本民主党参加と保守合同とは? わかりやすく解説

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日本民主党参加と保守合同

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)

三木武夫」の記事における「日本民主党参加と保守合同」の解説

1953年昭和28年暮れ芦田保守勢力結集図り自由党緒方竹虎石橋湛山接触した芦田重光に対して緒方らとの保守勢力結集乗るよう働きかけたものの、重光緒方小磯内閣東久邇内閣二度亘って厳しく対立した経過もあり、重光乗ってこなかった。三木革新派芦田動き反発したが、結局5月には自由、改進鳩山派によって合同協議される運びになった6月に入ると国会で与野党対立激化し自由党強硬姿勢改進党内の反発強まったそのような中で三木吉田棚上げ論をぶち上げ新党交渉決裂図った芦田三木対す反発強めたが、結局は長期政権維持してきた吉田首相退陣追い込む方策一つとして9月には鳩山中心として反吉田新党を立ち上げる構想具体化する吉田緒方らと保守合同進めようとしていた芦田は、重光党幹部三木革新派除外した改進党有志結集して自らの構想押し進めようとしたが、芦田動き封じられた。結局11月24日鳩山一郎総裁重光葵副総裁とする日本民主党結成される三木日本民主党結党積極的な役割果たしえず、協同主義新党方針から完全に消え三木も党の役職には就かなかった。 第5次吉田内閣造船疑獄などにより支持失いつつあり、日本民主党結成により内閣不信任案可決必至となり、衆議院解散断念した吉田総辞職した12月10日には第一次鳩山内閣成立した組閣当たって鳩山首相は旧改進党意志尊重掲げ、党では無役となった三木運輸大臣として入閣果たした三木運輸大臣として洞爺丸事故後始末紫雲丸事故への対応などに当たることになる。 鳩山内閣成立後日本民主党自由党合同いわゆる保守合同政治日程に登ってきた。民主党三木武吉総務会長中心として岸信介幹事長らが保守合同牽引した。しかし三木ら旧改進党革新派松村謙三らは合同反対した。三木保守合同反対した理由としては、保守政党急進政党二大政党制実現すると、保守政党はより保守化し急進政党はより急進化する力学が働くため、健全な議会政治育たないことを挙げていた。また自由党内も緒方自由党総裁合同積極であったものの、吉田前首相中心に強硬な反対派存在した民主、自由両党ともに反対派抱え保守合同たやすく実現しなかったが、革新側の社会党再統一財界からの要望もあり、1955年昭和30年11月15日保守合同実現し自由民主党結成される三木保守合同反対続けたが、最終的に自民党への参加決めた自民党参加後三木は、旧改進党革新派中心としたいわゆる保守革新派少数派閥、三木派率いることになる。 終戦直後疎開先の秩父から戻った三木一家とりあえ居住始めた雑司が谷の家から、1946年昭和21年春に中野引っ越した。しかし中野新居接収遭ってしまい、初台へと移った初台の中で2、3引っ越しをした後、1951年昭和26年)から吉祥寺に住むようになる。また三木戦後いち早く新橋事務所構えようになった。しかし新橋事務所接収遭って虎ノ門事務所構えることになり、虎ノ門次に赤坂事務所構える。

※この「日本民主党参加と保守合同」の解説は、「三木武夫」の解説の一部です。
「日本民主党参加と保守合同」を含む「三木武夫」の記事については、「三木武夫」の概要を参照ください。

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