教育者・作家として
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「キャサリン・ダナム」の記事における「教育者・作家として」の解説
1945年、ダナムはニューヨークのタイムズ・スクエア近くにキャサリン・ダナム・スクール・オヴ・ダンス・アンド・シアターを設立し、指導にあたった。ダナムの舞踊団は、熱烈な支持者かつ後援者のリー・シュバートによって3年間、スタジオが無償貸与された。開校時の生徒数は350人であった。 カリキュラムには、舞踊、演劇、上演芸術、応用技術、人文科学、文化研究、カリブ研究の各コースが組まれていた。1947年に拡張され、キャサリン・ダナム・スクール・オヴ・カルチュラル・アーツとして認可された。ダナムの留守中はダンサーの一人であるシヴィラ・フォートが運営し、約10年間、首尾よく運んだ。当時この種のものとしては最良の学校の一つと見なされ、やがてこれに触発された学校が、ダナムの訓練を受けたダンサーたちによりストックホルム、パリ、ローマで設立された。 卒業生には、 アーサ・キットなど、後の有名人が多く含まれていた。 10代の頃、キットはダナム・スクールへの奨学金を得て、やがて舞踊団のダンサーを務めた後、歌手として成功を収めた。ダナムとキットは1970年代に、アイルランドの戯曲 Peg O' My Heart に基づく俳優協会制作ミュージカル Peg で再び協働した。他方。ダナム舞踊団のメンバーであるダナ・マクブルーム=マンノは、ミュージック・フェア・サーキットでのショーで特集アーティストに選ばれた。 他にダナムの学校に通った人物には、ジェームズ・ディーン、グレゴリー・ペック、ホセ・フェラー、ジェニファー・ジョーンズ、シェリー・ウィンタース、シドニー・ポワチエ、シャーリー・マクレーン、ウォーレン・ビーティーがいる。マーロン・ブランドはしばしば学校に立ち寄ってボンゴを叩き、ジャズ・ミュージシャンのチャールズ・ミンガスは定期的にドラマーとジャム・セッションをしていた。様々な革新で知られるダナムだが、とりわけ彼女が編み出した舞踊教授法は後にダナム・テクニックと名付けられた。これはアフリカの伝統舞踊に基づく動きと体操の形式であり、ダナムの振付の土台をなした。これは国際的な評価を獲得し、現在では多くのダンススクールでモダンダンスの様式として教えられている。 1957年に至るとダナムは深刻なストレスを抱えており、健康に影響が表れていた。日本の京都で1年間静養し、そこで青年時代の回想録を執筆した。最初の著作『小さな純真――幼年期の思い出(A Touch of Innocence: Memoirs of Childhood)』は1959年に出版された。これに続き、ハイチでの経験に基づく『神懸かりの島(Island Possessed)』は1969年に、アフリカでの経験に基づく創作『Kasamance:A Fantasy』は1974年に出版されている。ダナムはそのキャリア全体を通じて、しばしば人類学的研究に関する記事を発表し(時にはケイ・ダンの仮名で)、大学や学会で人類学的なテーマについて講演することもあった。 1963年、ダナムはニューヨークのメトロポリタン・オペラにおける『アイーダ』への振付を委嘱された。主演はレオンティン・プライスである。ニューヨークでのダナムの最後の舞踊団メンバーは、メット・バレエ団のオーディションを受け、その内、マーシャ・マクブルーム(Marcia McBroom)、ダナ・マクブルーム(Dana McBroom)、ジーン・ケリー(Jean Kelly)、ジェシー・オリヴァー(Jesse Oliver)が選ばれた。メット・バレエ団のダンサーは、『アイーダ』のシーズン開幕までの夏、42番街のダナムのダンス・スタジオでダナム・テクニックを学んだ。初日の客席にはリンドン・B・ジョンソンもいた。人類学者としてのダナムの素養が、オペラのダンスに新しい真正性をもたらすことになった。エジプトやエチオピアの衣装についても相談に応じていたのである。ダナ・マクブルーム=マンノは、ダナム・テクニックのマスターとして、現在もニューヨークで教えている。 1964年、ダナムはイースト・セントルイスに居を構え、ほど近いエドワーズヴィルにある南イリノイ大学のアーティスト・イン・レジデンスとなった。そこでは人類学者、社会学者、教育専門家、科学者、作家、ミュージシャン、演劇人を集めて、さらなる大学での活動の基礎となるリベラルアーツのカリキュラムを作成することができた。同僚の教授の一人として建築家のバックミンスター・フラーがおり、ダナムとも協働した。 翌1965年、 リンドン・B・ジョンソン大統領は、西アフリカのセネガル政府の技術文化顧問、一種の文化大使にダナムを指名した。その使命は、セネガル国立バレエ団のトレーニングを支援し、ダカールでの第1回全アフリカ黒人世界芸術祭(1965~66年)を準備するレオポルド・サンゴール大統領に力を貸すことであった。後にセネガルに二軒目の家を設けたダナムは、時折そこに滞在して、才能あるアフリカ人ミュージシャンやダンサーをスカウトした。 1967年、ダナムは芸術の力で貧困や都市問題に対処するべく、イースト・セントルイスに上演芸術トレーニングセンター(PATC)を開設した。重工業の再編が多くの労働者階級の職を奪い、市内の失業率は高かった。マーティン・ルーサー・キング暗殺に続く1968年の暴動の後、ダナムは、ゲットーのギャングたちにセンターへ来てドラムやダンスで欲求不満を解消するよう勧めた。PATCのスタッフはダナム舞踊団の元メンバーおよび地元住民である。地域の若者を支援しようとしている最中、ダナムは逮捕された。この事件は国際的に報じられ、あわてた地元警察はすぐに釈放した。ダナムは自身のテクニックの改良と指導を続け、後の世代に知識を伝えようと尽力した。毎夏、セントルイスで開催されるマスターズ・セミナーでの講演は亡くなるまで続き、世界中からやって来る生徒たちを魅了した。イースト・セントルイスにキャサリン・ダナム芸術人文センターを設立し、個人コレクションからハイチとアフリカの楽器や器物を保存した。 1976年、ダナムはカリフォルニア大学バークレー校にアフリカ系アメリカ人研究のゲスト・アーティスト・イン・レジデンスおよび講師として招かれた。彼女の功績を称える写真展「Kaiso! キャサリン・ダナム」がキャンパス内の女性センターで開催された。1978年にはダナムによる著述およびダナムに関する著述を集めた同タイトルのアンソロジーが、社会変革研究所から130部限定(ナンバリング付き)で出版された。
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