教育者や蒐集家としてとは? わかりやすく解説

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教育者や蒐集家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 08:51 UTC 版)

原田観峰」の記事における「教育者や蒐集家として」の解説

戦後は、1946年下庄八幡神社境内私立瀬高幼稚園設立。同園を継承した瀬高保育園経営しその分園も開設した。ひばり保育園とほたる幼稚園続けて開設最終的に5つ幼稚園運営したとされる。またこの頃みやま市立瀬高中学校書道講師務めた。こうして習字書道園児生徒教えるうち、成人にも教えたい考え始める。 42歳であった1953年西日本書道通信学会創立手本指導書家族と共に謄写版作成して封筒入れ通信教育行っていたが、やがて規模拡大して拠点博多移し西日本習字連盟改名連盟はやがて中国地方近畿地方にも範囲広げ日本習字教育財団となる。 観峰は「正しい文字美しい文字」をモットー書道教育普及活動実施講座の手本の執筆講習会への登壇担った。また海外でも活動行い30超える国々書道中心とする文化交流実施した1960年代後半から中国文化大革命伴って中国書画が多く中国国外売り出されるうになると、観峰は本物贋作であるかに拘らず書画購入して蒐集したまた、1970年代後半からアメリカヨーロッパにも活動範囲広げるうになるこの際に文字日常生活用いない文化出会って衝撃受けた観峰は、アフリカ・オセアニアの民族資料ヨーロッパアンティーク品なども蒐集することになる。 場所を借りるのではなく独自の研修施設欲しいと考え1977年には滋賀県永源寺町(現・東近江市蛭谷地区習字講師養成施設すめら学園」を設立春秋それぞれ2,3か月養成講座22年開講した。「すめら学園」の開設に際して当時滋賀県議会議員であった北川弥助親睦深め、その縁で1985年淡海女子専門学校淡海書道文化専門学校改称し校長就任。これ以降書道実技と書文化を学ぶ専門学校として運営し淡海書道文化研究センター1990年)や書道研究科1995年)を設置した1995年7月死去享年84歳であった同年10月には淡海書道文化専門学校隣接して博物館である観峰館開設され蒐集していた中国書画などが「観峰コレクション」として展示されている。

※この「教育者や蒐集家として」の解説は、「原田観峰」の解説の一部です。
「教育者や蒐集家として」を含む「原田観峰」の記事については、「原田観峰」の概要を参照ください。

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