教育者の道へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/10 20:23 UTC 版)
染物業との兼業農家の二男として誕生。地元の農学校を卒業後、農業の教師を志し、1900年(明治33年)、当時の農業教員養成学校としては最高学府である東京帝国大学農科大学付属農業教員養成所に入所した。 同年5月、東京のキリスト教青年会館で、北海道旧土人教育会主催による演説会に参加し、ハワイでの伝道から帰ってきたアイヌ救済運動家・小谷部全一郎の、アイヌについての講演を聞いた。当時、アイヌの人々は長年の差別と貧困に苦しみ、病気を患っても医者にかかれないことも多く、教育を受けられない者も多かった。白井はアイヌの存在と彼らの当時の現状を知って衝撃を受け、アイヌ教育に一生を捧げる決意をし、小谷部のアイヌ救済事業への参加を訴えた。小谷部は、当時のアイヌの生活を考慮し、白井には到底手に負えないと考え、始めこそ良い返事をしなかったものの、白井の熱意に折れることとなった。 1901年(明治34年)に教員養成所を卒業。同年8月、本来ならエリートとして立身出世の望める立場にあったにも関らず、条件の良い就職をすべて断り、小谷部が北海道虻田村(後の虻田町→洞爺湖町)に創立した虻田学園の教師になるべく、小谷部の助手として北海道に渡った。
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