教育の一系化
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1942年(昭和17年)11月1日付で、兵科将校・機関科将校が「兵科将校」に統合されて、階級や服装の違いがなくなり、次いで、1944年(昭和19年)8月に軍令承行令も改正されて、制度上は、兵学校出身者と機関学校出身者の指揮権継承順位についての区別もなくなり、制度上の統合は完了した。ただし、太平洋戦争のさなかであり、(旧)機関科将校が(旧)兵科将校の配置に就くこと、その逆のいずれも非現実的であるため、「特例として、戦闘艦艇(軍艦、駆逐艦、潜水艦など)においては、従来通りに、(旧)兵科将校が指揮権継承について優先する」定めが同時に設けられた。 着任前の11月初頭、海軍省に出頭し、海軍大臣・嶋田繁太郎に挨拶した井上は、嶋田に、自分を兵学校長に選んだ理由を尋ねた。嶋田は「私は君が(兵学校長に)適任だと思っているよ。その上、君が昭和12年に約1年かかって研究して結論を出した一系問題を実施しようと思うので、そのために君に兵学校に行ってもらうことにした」と返答した。井上は「解りました。一系問題ならば引き受けました。……当局は兵学校長を1年くらいで交代させていますが、それでは短すぎます。私を兵学校長にする以上は、3、4年くらいは兵学校長をやらせて下さい」という旨を嶋田に言った。嶋田が「君はあと2年もすれば大将になる。3、4年も兵学校長をやらせる訳には行かない」と言う旨を答えると、井上は「私はべつに大将になどなりたいとは思いません。その時がきたら私を中将のまま予備役に編入、即日召集して(引き続き)兵学校長にして下さい」と言った。嶋田は「私が大臣の間は兵学校長を替えない」と約束し、これで井上もようやく納得した。 井上は兵科将校の教育と機関科将校の教育を一系化するため、兵学校長に着任して直ちに機関学校出身の兵学校教官を企画課に配員し、自ら指導して、一系化教育の実施研究を進めた。具体的な成果としては、兵学校で従来から行なわれていた兵器教育の中に、機関学校で教えている機構学の内容が取り入れられて、新しい課目「理兵学」(井上自身の命名)が誕生した。各術科ごとに理兵学教科書が作られて教授された。 1944年(昭和19年)10月1日付で、京都府舞鶴所在の海軍機関学校が制度上廃止され、海軍兵学校舞鶴分校として再出発した。海軍兵学校舞鶴分校については「当分の間、海軍兵学校舞鶴分校に於ては、従前の海軍機関学校の教育綱領に準じ機関、工作、及び整備専修生徒の教育を行なうべし」と定められた。 また、兵学校は海軍大臣の定めた「海軍兵学校教育綱領」によって運営されており、校長の交替で教育目的や基本方針が大きく変ることはない筈であったが、実際には校長の裁量の余地が認められており、井上は、兵学校に着任すると、直ちに校長自らが出席する「教官研究会」の開催を指示し、1942年(昭和17年)11月28日に第1回を実施し、以後、半年の間に「教官研究会」で、自らの所見を記した『教育漫語』(当時の教官が保存しており、「其ノ1」から「其ノ3」まである)というプリントを使って「教官教育」を行った。また、井上は、前線帰りの武官教官が生徒に直接に実戦談をすることは禁じたが、教官研究会で、教官たちに対して戦況報告をさせた。井上自身も、第四艦隊長官として珊瑚海海戦を指揮した時のことを「教官研究会」で話した。井上の率直で謙虚な「珊瑚海海戦報告」は、教官たちに大きな感銘を与えた。 井上は、訓育を担当する監事(武官教官)に比叡艦長時代に作成した「勅諭衍義」を配布して、監事たちの思想統一を図った。次いで、兵学校内の教育参考館に掲げてあった全海軍大将の額を撤去した。驚いた副官に、井上は「生徒たちの目標は東郷元帥だけで充分。他の大将の額を掲げるのは、生徒に出世主義を示唆するもの」と言う旨を答えた。井上は「まず参考館に入ってみると、海軍大将の額がずらりと並んでいる。その大部分の人は長い間海軍に御奉公した人たちで、その功績は大きい。しかし、中には海軍のためにならないことをやった人もいるし、また、先が見えなくて日本を対米戦争に突入させてしまった、私が国賊と呼びたいような人もいる。こんな人たちを生徒に尊敬せよ、とは私には到底言えないし、また、そんな人たちの写真を参考館に飾っておくことは、館内に同居している真珠湾攻撃の特殊潜航艇で戦死した若い軍人方にも相済まぬと思ったからである」と回想する。井上が着任する前から、海軍省教育局が、東京帝国大学教授・平泉澄を、兵学校に度々派遣し、教官や生徒に皇国史観に基づく講話をさせていた。井上は、平泉の生徒への講話を廃し、「教育研究会」での教官への講話に限定した。また、井上自身も平泉の「教育研究会」での講話を聞き、不適切と思われる内容があった場合は、講話の後で教官たちに指摘して注意喚起した。 兵学校のある期について、兵学校卒業席次と最終到達階級との関連を数学的に分析して、教育参考資料として兵学校教官たちに示した。 兵学校教官は、休日には担当する分隊の生徒を官舎に呼んで妻の手料理を振る舞う慣習があった。戦争が激化して物資が不足しているのに、実験的に2つの分隊を担当させられた教官がおり、2倍の生徒に手料理を食べさせるために出費が嵩み、かつ娘が栄養失調で入院してしまい、家計のやりくりがつかなくなった。これを知った井上は、その教官宅に校長命令で粉ミルクやパンなどを特別配給させて深く感謝された。 井上の兵学校長着任時に在校していたのは、71期(卒業時 581名)・72期(卒業時 625名)・73期(卒業時 902名)の3クラスだった。着任直後の11月14日に71期が卒業し、12月1日には74期(卒業時 1,024名)が入校した。この時点で、兵学校生徒は2,500名を超えた。元来、兵学校の施設は、生徒1,000名程度をゆったり収容できるように作られていたが、生徒が「適正人数」の3倍近くなっているため、生徒の収容が物理的に困難なだけでなく、「島」に立地するゆえに飲料水が不足して、宇品港から、毎日、飲料水を船で運んでいた。海軍中央では、千葉県の館山付近への兵学校移転を検討したこともあった。しかし、海軍中央と兵学校当局は、兵学校を江田島に止めて規模を拡張することを1941年(昭和16年)中に決定し、井上が着任した1942年(昭和17年)11月には、拡張計画の一部は着工済、細部の計画や大部分の工事はこれから、という段階であった。井上は工事計画の説明を受けると様々な問題点を見出し、工事計画の基本構想まで遡って部下に再検討を求め、再検討の結果について直ちに査閲した上で決裁し、その後は関係者に全てを任せ、指示を求められない限り口を出さなかった。井上の適切な指揮で、兵学校の拡張工事は大幅に促進される結果となった。江田島の水不足対策としては、当初計画が「江田島の中に水源地は1か所だが、もう1か所増設する」という内容だったのを、井上は「呉から水道管を海底に敷設して給水を受ける」方法の検討を指示したが、技術的・時間的に困難で実現しなかった。
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