教育の一系化とは? わかりやすく解説

教育の一系化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:42 UTC 版)

井上成美」の記事における「教育の一系化」の解説

1942年昭和17年11月1日付で、兵科将校機関科将校が「兵科将校」に統合されて、階級服装違いなくなり次いで1944年昭和19年8月軍令承行令改正されて、制度上は、兵学校出身者機関学校出身者の指揮権継承順位についての区別なくなり制度上の統合完了した。ただし、太平洋戦争のさなかであり、(旧)機関科将校が(旧)兵科将校配置に就くこと、その逆のいずれも非現実的であるため、「特例として、戦闘艦艇軍艦駆逐艦潜水艦など)においては従来通りに、(旧)兵科将校指揮権継承について優先する定め同時に設けられた。 着任前の11月初頭海軍省出頭し海軍大臣嶋田繁太郎挨拶した井上は、嶋田に、自分兵学校長に選んだ理由尋ねた嶋田は「私は君が(兵学校長に)適任だ思っているよ。その上、君が昭和12年に約1年かかって研究して結論出した一系問題実施しようと思うので、そのために君に兵学校行ってもらうことにした」と返答した井上は「解りました一系問題ならば引き受けました。……当局兵学校長を1年くらいで交代させていますが、それでは短すぎます。私を兵学校長にする以上は、3、4年くらいは兵学校長をやらせて下さい」という旨を嶋田言った嶋田が「君はあと2年もすれば大将になる。3、4年も兵学校長をやらせる訳には行かないと言う旨を答えると、井上は「私はべつに大将になどなりたいとは思いません。その時がきたら私を中将のまま予備役編入即日召集して(引き続き兵学校長にし下さいと言った嶋田は「私が大臣の間は兵学校長を替えない」と約束し、これで井上もようやく納得した井上兵科将校教育機関科将校教育一系化するため、兵学校長に着任して直ち機関学校出身の兵学校教官企画課に配員し、自ら指導して一系化教育の実施研究進めた具体的な成果としては、兵学校従来ら行なわれていた兵器教育中に機関学校教えている機構学内容取り入れられて、新し課目「理兵学」(井上自身命名)が誕生した。各術科ごとに理兵学教科書作られ教授された。 1944年昭和19年10月1日付で、京都府舞鶴所在海軍機関学校制度廃止され海軍兵学校舞鶴分校として再出発した海軍兵学校舞鶴分校については「当分の間海軍兵学校舞鶴分校に於ては従前海軍機関学校教育綱領準じ機関工作、及び整備専修生徒教育行なうべし」と定められた。 また、兵学校海軍大臣定めた海軍兵学校教育綱領」によって運営されており、校長交替教育目的基本方針大きく変ることはない筈であったが、実際に校長裁量余地認められており、井上は、兵学校着任すると、直ち校長自らが出席する教官研究会」の開催指示し1942年昭和17年11月28日第1回実施し以後半年の間に「教官研究会」で、自らの所見記した教育漫語』(当時教官保存しており、「其ノ1」から「其ノ3」まである)というプリント使って教官教育」を行ったまた、井上は、前線帰り武官教官生徒直接実戦談をすることは禁じたが、教官研究会で、教官たちに対して戦況報告をさせた。井上自身も、第四艦隊長官として珊瑚海海戦指揮した時のことを「教官研究会」で話した井上の率直で謙虚な珊瑚海海戦報告」は、教官たち大きな感銘与えた井上は、訓育担当する監事武官教官)に比叡艦長時代作成した勅諭衍義」を配布して監事たちの思想統一図った次いで兵学校内の教育参考館掲げてあった全海軍大将の額を撤去した驚いた副官に、井上は「生徒たち目標東郷元帥だけで充分。他の大将の額を掲げるのは、生徒出世主義示唆するものと言う旨を答えた井上は「まず参考館入ってみると、海軍大将の額がずらりと並んでいる。その大部分の人は長い間海軍御奉公した人たちで、その功績大きい。しかし、中には海軍のためにならないことをやった人もいるし、また、先が見えなくて日本対米戦争突入させてしまった、私が国賊呼びたいような人もいる。こんな人たちを生徒尊敬せよ、とは私には到底言えないし、また、そんな人たちの写真参考館飾っておくことは、館内同居している真珠湾攻撃特殊潜航艇戦死した若い軍人方に相済まぬと思ったからである」と回想する井上着任する前から、海軍省教育局が、東京帝国大学教授平泉澄を、兵学校に度々派遣し教官生徒皇国史観に基づく講話をさせていた。井上は、平泉生徒への講話廃し、「教育研究会」での教官への講話限定したまた、井上自身平泉の「教育研究会」での講話聞き不適切思われる内容があった場合は、講話後で教官たち指摘して注意喚起した。 兵学校のある期について、兵学校卒業席次最終到達階級との関連数学的に分析して教育参考資料として兵学校教官たち示した兵学校教官は、休日には担当する分隊生徒官舎呼んでの手料理振る舞う慣習があった。戦争激化して物資不足しているのに、実験的に2つ分隊担当させられ教官がおり、2倍の生徒手料理食べさせるために出費嵩み、かつ娘が栄養失調入院してしまい、家計やりくりがつかなくなった。これを知った井上は、その教官宅に校長命令粉ミルクパンなどを特別配給させて深く感謝された。 井上兵学校長着時に在校していたのは、71期(卒業581名)・72期卒業625名)・73期(卒業902名)の3クラスだった。着任直後11月14日71期が卒業し12月1日には74期卒業時 1,024名)が入校した。この時点で、兵学校生徒は2,500名を超えた元来兵学校施設は、生徒1,000程度をゆったり収容できるように作られていたが、生徒が「適正人数」の3倍近くなっているため、生徒収容物理的に困難なだけでなく、「島」に立地するゆえに飲料水不足して宇品港から、毎日飲料水を船で運んでいた。海軍中央では、千葉県館山付近への兵学校移転検討したこともあった。しかし、海軍中央兵学校当局は、兵学校江田島止めて規模拡張することを1941年昭和16年中に決定し井上着任した1942年昭和17年11月には、拡張計画一部着工済、細部計画大部分工事これから、という段であった井上工事計画説明を受けると様々な問題点見出し工事計画基本構想まで遡って部下再検討求め再検討結果について直ち査閲した上で決裁しその後関係者全て任せ指示求められない限り口を出さなかった。井上適切な指揮で、兵学校拡張工事大幅に促進される結果となった江田島水不足対策としては、当初計画が「江田島中に水源地は1か所だが、もう1か所増設する」という内容だったのを、井上は「呉から水道管海底敷設して給水を受ける」方法検討指示したが、技術的時間的に困難で実現しなかった。

※この「教育の一系化」の解説は、「井上成美」の解説の一部です。
「教育の一系化」を含む「井上成美」の記事については、「井上成美」の概要を参照ください。

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