小運送教習所と流通経済大学
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「学校法人日通学園」の記事における「小運送教習所と流通経済大学」の解説
1872年、汐留~桜木町間に日本初の鉄道が開通して以降、日本全国に鉄道網が建設・整備される。 この事は、それまで物流の中心であった、小型船舶で河川を運行して物資を輸送する水運、各地の宿場を貨物ターミナルとする馬車や飛脚(町飛脚)による駅伝制から、鉄道を利用した貨物輸送へと流通経済に変化をもたらした。 鉄道貨物輸送の普及に伴い、鉄道貨物の取扱駅を営業拠点とし、輸送する貨物を集荷・配送する、通運(つううん)又は小運送(こうんそう)と呼ばれる業種も誕生した。 コンテナリゼーションの実現していない大正・昭和初期の物流業界において、小運送(通運)は、オート三輪等の小型トラックや荷馬車・天秤棒による人力輸送で行われていた。その為、資力の乏しい者でも新規参入が容易な事業であり、窓口である各駅に中小零細企業が乱立し過当競争に陥っていた。 1937年。戦時物資の円滑供給の観点からこの問題を改善する為、政府は「日本通運株式会社法」を制定。同法により、1つの鉄道駅で小運送(通運)営業を許可する事業者は1社のみとする「1駅1店制」を導入。全国各駅に乱立する小運送会社を整理・統合し、全国規模の国営総合物流企業「日本通運株式会社」として再編する政策(日通統合)を開始。終戦まで行われた。 この政策の一環として、通運(小運送)業界の中堅幹部を育成する教育機関の設立も構想される。 1938年。鉄道省の傘下に財団法人小運送協会が設立され、「小運送教習所」(修業年限1年。入学対象者は旧制中学卒業以上)を1940年に東京・神田和泉町に開校。1948年まで存在していた。 小運送教習所では、輸送に関する専門科目から、教養科目として文学や哲学、体育なども講義されていた事から、単なる実務教育機関ではなく、通運業界で活躍する人材の質的向上を目指していたとされ、現在の短期大学に近い教育課程だった。(この事は、日本通運株式会社が「企業の設立資金寄付による学校法人設立と大学開学」を着想する要因の一つとなる。) 1945年の終戦以降、日本通運株式会社は民営化され、小運送教習所は同社の社内教育機関、業務研究所となり閉鎖された。 小運送協会も事業を縮小し、東京・大阪で学生寮の運営を行う法人となっていた。。 小運送教習所の閉校後、鉄道(鉄道学校・東京交通短期大学)・海運(商船高等専門学校、商船大学)・航空(日本航空高等学校)に関する専門教育機関(交通関連の高等学校一覧参照)は存在したが、これらの学校は主に、交通に関する技術(運行や整備に関するもの)を教授するものであり、交通機関を用いた複合的な輸送事業(利用運送事業)や、鉄道貨物輸送に代わって物流の主力となりつつあった自動車輸送を中心とした陸運業、生産管理の基礎となる倉庫業に関して、専門的な知識を持った人材を育成する教育機関は存在しなかった。 高度経済成長時代を迎え、製品の高機能化と言った技術開発競争に加えて、欧米から新たな生産性向上の方法として、在庫管理や生産計画の適正化に代表される、生産管理の発想が日本にも取り入れられて普及する様になる。 この状況に至り、これまでどちらかと言えば、受動的に貨物を輸送・保管するだけであった物流・流通業界や他業界の倉庫・物流担当部門でも、経済学・経営学を基礎とし、輸送に関する専門知識を持った将来の幹部候補となるべき人材の養成が求められて来た事から、産業界からも教育機関設立について幾つか提言されるようになった。 中西正道(大崎運送社長)「輸送業界は従来人つくりにはあまり関心をもっていなかったようだが、近年積極的に大学卒業者を採用し、人つくりの重要性を痛感するようになった。そこでこれからは、このような大学出の者をいかに運送人とするかが大切な課題となろう」(昭和38年1月31日「輸送経済新聞」) 泉山信一(三八五貨物社長)「むろん、はじめから独立した学校を設立することは困難であろうから、まず第一段階としてどこかの大学に交通運輸学科とか、運輸関係の専門学科を設置してほしいと思う。これを主軸として、将来独立した学校の設立にもっていけばよいだろう。あるいは業界が出資して、一つの私立大学のようなものをつくり、それをだんだんと拡大強化して行くという方法もある」(昭和38年3月18日「運輸タイムズ」) 本山実(運輸調査局陸運部長)「諸外国では、ほとんどの商科系の大学が交通、運輸の講座をもっており、交通学の単位が設けられている。中にはミシガン州立大学のように、荷造、包装の専門学科が設けられている例もあり、これらの大学では、卒業後会社の輸送管理者としての実務に役立つような教育が施されているのである。これに対してわが国では商科系の大学でも交通の講座が設けられていないものがあり、あっても選択科目としてワキ役の存在でしかない」(昭和38年6月6日「輸送経済新聞」) これらの代表的提言は、物流や流通に関する専門的知識を持った人材を育成する、高等教育機関設立の必要性を訴えるものであった。しかしいずれも、国や民間では単独での大学設立は困難であるとの前提に立ち、産業界主導で既存の大学に学部を増設するか、大学の経済・商科系学部に流通・物流に関する専門科目を増設させるために産業界が支援を行うかの選択に留まっていた。また、入学対象者も物流・流通業界の若手社員を大学へ出向させ、社会人学生として大学で一定期間教育を委託する事を中心にした構想であった。 一方、日本通運株式会社は、物流・流通・交通に関する調査、研究、分析を行う民間研究機関として、1961年に日通総合研究所をすでに開設していた事から、「小運送教習所」の理念をモデルとした、従業員や社会人学生以外にも門戸を開いた、社内教育機関としてではない学校法人の形態での大学設立を具体的に表明していた。 福島敏行(日本通運社長)「日本経済の高度成長の中で産業界が行った企業合理化の成長は大きいものがある。しかしそれが、流通部門の経路に入ると、この分野は未開拓で、合理化が忘れられたままになっている面がある。輸送事業という公共性から言っても、もっと早くこの計画を実行に移さねばならなかった。幸い、こんにち、こう言う気運が高まってきたので、おそまきながら大学設置に踏切りたい」(「輸送経済新聞」昭和38年10月3日)
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