しおん 【四恩】
四恩
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四恩(しおん)は仏教用語で、人々が身に受けている四つの恩を指す[1]。教典によって内容・順序が異なるが、現在では一般に「父母の恩・衆生の恩・国王の恩・三宝の恩」とされる[2]。日本では特に真言宗を創始した空海らによって本格的に受容され、日蓮などの再評価を経て、現在でも在家信徒の指針として説かれている[3]。
概要
仏教における「恩」はもともとサンスクリット語のウパカーラ(upakāra=他の者を思いやること)またはクルタ(krta=他の者から自分に与えられた恵み・慈しみ)の漢訳で、仏教の多くの流派が、人は自らが他から与えられる恵み・思いやりに支えられていることを知り(知恩)、それに報いるよう生きねばならない(報恩)と説く[4]。インドでは神々や仏からの恩が強調されていたが、中国や日本にわたると君主や父母の恵みという側面が強調されるようになった[4]。
その代表的なものを列挙したのが四恩で、4〜5世紀ごろに成立した教典『正法念処経』では母・父・如来・説法の師の恩とされ、後の『心地観経(しんちかんぎょう 正式名は「大乗本生心地観経」)』では父母・衆生・国王・三宝の恩とする[5]。
「衆生」はサンスクリット語のサットバ(sattva)などの漢訳で、この世に生きる人々から人間を取りまく動物・植物まで生きもの一切を含める[4]。「三宝」は仏・法・僧の三つで、仏=悟りを開いた人、法=仏の説いた教え、僧=仏の教えに従って修行する集団、を指す[4]。
つまり四恩とは、肉体的な存在をこの世に生んだ父母、その身体を取り囲んでいる人々と生きものの世界、それら現実の存在を保護する国王、精神生活の基盤である三宝、これらの四つからわれわれが常に恩を受けている、とする思想である[5][3]。
四恩の語は日本に早くから伝わり、奈良時代の法隆寺仏像に四恩の銘文が残る[6]。しかし仏教思想として受容される重要なきっかけとなったのは、唐代に翻訳された『心地観経』とその空海による受容である[5]。この教典はセイロン島(現スリランカ)の王から唐へ贈られたとも言われるが、サンスクリット語の原典は現存せず、唐の般若三蔵による漢訳のみが残っている。その『心地観経』は次のように記す[7]。
「世出世恩有其四種一父母恩二衆生恩三國王恩四三寶恩如是四恩一切衆生平等荷負」
(世に生まれ出る恩は四種有り。一に父母の恩、二に衆生の恩、三に国王の恩、四に三宝の恩。かくの如き四恩は、一切の衆生平等に荷負す)
この教えを唐で般若から直に受容したとされる空海は、四恩について次のように説いている[8]。
「…夫れ此の身は虚空より化生(けしょう)するに非ず。大地より変現せるに非ず。必ず四恩の徳に資(たす)けられて、是の五陰(ごおん)の体を保つ。謂ふ所の四恩とは、一には父母、二には国王、三には衆生、四には三法なり。」
(そもそもこの身は、虚空から変じ生まれたものでもなく、大地から変じ現れたものでもなく、すべて因縁によって生まれたものである。かならず父母・国王・衆生・三宝の力にたすけられて、かりにこの世に身体を保っているにすぎない。)
空海が唐から帰国後こうした思想を折に触れて説いたことから、四恩の語は日本で広く普及し、『平家物語』『源平盛衰記』『日本霊異記』などにも言及があるほか、日蓮宗(法華宗)の開祖となった日蓮は流罪の身となったときこの語をめぐって「四恩抄」を著して「仏法を習う身は、かならず四恩を報ずべきである」と述べている[9][10]。江戸時代に至っても『和漢名数』『俚言集覧』などに記載があり、長崎切支丹版『日葡辞書』にも記述が見える[11]。
国王の恩
上述のとおり原典としての『心地観経』は明確に「国王の恩」と記しており、それを踏まえた空海もこの表現を引き継いで次のように書いている[8]。
父母我を生ずと云ふと雖も、若し国王無くんば、強弱相戦ひ、貴賤劫奪して身命保ち難く、財宝何ぞ守らん。
(しかし父母がわれわれを生んでくれたといっても、国王がいなかったなら、強者弱者たがいに戦い、貴者貧者うばいあって、この身の命はとうてい保ち難い。)
この語は『平家物語』でも「朝恩(朝廷・天皇に対する恩)」と同一視されていた。また明治期以降にはこの箇所を「国体の精華」と説明するなど、「国王の恩」の語は天皇に対する臣従をうながすためにも長く用いられてきた[12][13][14]。
近年では「治安を司り、人々の生命と財産を保護する者」「国家・公共への奉仕に努める精神」などと読み替えて説く例も増えている[15][5]。
出典
- ^ 『例文 仏教語大辞典』(小学館、1997)
- ^ 『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2007)
- ^ a b 中野義照『密教の信仰と倫理 : 中野義照集』(教育新潮社、1970)
- ^ a b c d 新井慧誉「仏教における恩」(『日本大百科全書』小学館、1994);山折哲夫「恩」(『改訂新版 世界大百科事典』平凡社、2014)
- ^ a b c d 松長有慶『密教・コスモスとマンダラ』(日本放送出版協会、1985)
- ^ 「釈迦如来及脇侍像」(『法隆寺献納金銅仏』奈良国立博物館、1981)
- ^ 『心地観経 報恩品』第二之上(明道教会、1884)
- ^ a b 「続遍照発揮性霊集補闕鈔 巻第八」(弘法大師空海全集編輯委員会編『弘法大師空海全集』第6巻、筑摩書房、1984)
- ^ 日蓮「四恩鈔」(『日本の名著:8』中央公論社、1970)
- ^ 「四恩」(日蓮宗事典刊行委員会編『日蓮宗事典』日蓮宗宗務院、1981)
- ^ 新村出「四恩の感想」(『新村出全集 随筆編2』第12巻、筑摩書房、1973)
- ^ 新井石禅『仏教道徳四恩講話』(鴻盟社、1913)
- ^ 和田性海『四恩大要』(密教社、1914)
- ^ 中根環堂『父母恩重経』(池田書店、1954)
- ^ 津田久編著『私の住友昭和史』(東洋経済新報社、1988)
関連文献
- 岡部和雄「四恩説の成立」(『恩』仏教思想4、平楽寺書店、1979)
- 勝又俊教「四恩思想の諸形態」(同『弘法大師の思想とその源流』山喜房仏書林、1981)
- 鈴木宗憲『日本の近代化と「恩」の思想』(法律文化社、1964)
- 松長有慶「四恩説の再検討」(『密教文化』189、1995)
関連項目
四 恩と同じ種類の言葉
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