嘉義農林学校(嘉農)野球部
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「KANO 1931海の向こうの甲子園」の記事における「嘉義農林学校(嘉農)野球部」の解説
近藤兵太郎(こんどう ひょうたろう) 演 - 永瀬正敏 嘉農野球部新任監督の内地人。愛媛県立松山商業学校を初の全国出場へと導いたのち、台湾へ赴き会計士となった。松山時代のいきさつから、嘉農野球部の監督就任依頼を受けても渋っていたが、練習風景を偶然見たのを機に、監督に就任する。 甲子園初出場で準優勝した後も嘉農で野球指導を続け、甲子園には春1回、夏4回出場した。戦後、故郷の愛媛県松山市へ引き揚げた後も新田高等学校や愛媛大学で野球部監督を務めた。 濱田次箕(はまだ つぎみ) 演 - 吉岡そんれい 嘉農の農業教師で、野球部部長を務める。近藤に監督就任を粘り強く依頼する。教職の傍らバナナやパパイヤの品種改良に取り組んでおり、パパイヤの実になぞらえて呉と平野にかけた励ましの言葉が、甲子園に出場した彼らの心の支えとなる。 呉明捷(ご めいしょう) 演 - 曹佑寧 1911年 - 1983年。野球部主将(投手)。4番バッター。本島人(客家)。あだ名は名前の一文字「明」を日本人風にした「アキラ」。近藤によって投手に抜擢され、全島大会1回戦では完全試合、甲子園では全試合完投(2回戦の対神奈川商工戦では完封)した。甲子園ではその圧倒的な投球から「麒麟児」と呼ばれた。 卒業後は早稲田大学に進学し、台湾籍のまま日本で暮らした。実の息子と孫が本作に端役で出演している(息子が嘉義市長役、孫が台北商業の投手役)。 東和一(あずま かずいち) 演 - 謝竣晟 1906年 - 1980年。捕手・5番。本島人アミ族(本名:ラワイ、漢名:藍徳和)。試合中はどのような場面でも常に冷静にサインを出すことから「神捕」と呼ばれた。甲子園決勝戦で、指を負傷しても完投を望む呉明捷を「わがままだ」と批判するが、彼の強い決意を知ってチーム一丸となってサポートする。 卒業後は故郷の台東で教師となり、野球チームを結成してその指導にもあたった。弟の東公文(藍徳明)も嘉農野球部で活躍し、1935年と1936年の甲子園大会(いずれも夏)に投手として出場した。息子は元台湾プロ野球の藍文成。 小里初雄(こざと はつお) 演 - 大倉裕真 1914年 - 1988年。ファースト・7番。大阪出身の内地人で「鉄壁のトライアングル」の一人。父親は嘉南大圳建設に従事する技師。父親の怪我が原因で野球部を一時離れたが、後に復帰する。甲子園決勝戦で指を負傷した呉明捷に、自分たちで守り抜くので直球を投げて打たせるよう勧める。 卒業後は台湾総督府専売局に勤務し、戦後は日本へ帰国して専売公社に勤務した。 川原信男(かわはら のぶお) 演 - 飯田のえる 1917年 - 1945年。セカンド・8番。内地人。チームメンバーでは最年少。守備に優れた「鉄壁のトライアングル」の一人であり、数多くのファインプレーを見せた。球縫いが得意という一面も持っている。 1933年の甲子園大会にも捕手として出場し、卒業後は嘉義農林署に勤務したが、のちに太平洋戦争に召集され、南洋で戦死した。 真山卯一(まやま ういち) 演 - 謝竣倢 1908年 - 2003年。サード・6番。本島アミ族(本名:マヤウ、漢名:拓弘山)。俊足を誇り、台湾全島大会決勝戦で台湾野球史上初の本盗を成功させ、盗塁王となった。 戦後は教師となり、チームメイトだった上松耕一が校長を務める台東農業学校などで教鞭をとり、「アジアの鉄人」と呼ばれた陸上の五輪メダリスト楊伝廣を育てたことでも知られる。退職後は亡くなるまでエホバの証人の宣教活動に従事した。 上松耕一(あげまつ こういち) 演 - 鐘硯誠 1905年 - 1958年。ショート・3番。本島プユマ族(本名:アジワツ、漢名:陳耕元)。甲子園史上最年長選手(当時26歳)。試合中、川原とともに歌をよく歌っている。 卒業後、横浜商業専門学校に進学し、台湾に帰国した後は嘉農の教員となり、野球部コーチになった。戦後は故郷の台東で農業学校の校長となり、同校野球部の監督も務めたが、1958年に交通事故のため死去した。息子は元台東県知事の陳建年で、孫娘は現役国会議員の陳瑩。 平野保郎(ひらの やすろう) 演 - 張弘邑 1908年 - 1982年。レフト・1番。本島アミ族(本名:ポロ、漢名:羅保農)。陸上部のマラソン選手だったが、足の速さを見込まれて野球部に抜擢される。選球眼に優れ、打率.530という強打者であり、甲子園準々決勝(対札幌商)では嘉農出場史上唯一となるホームランを打った(台湾代表チームとしても最後のホームランとなる)。また、俊足を活かして盗塁も数多く成功させる。 呉明捷の卒業後は投手となり、川原とバッテリーを組んで1933年の甲子園大会にも出場した。卒業後は故郷の台東で農業試験場に勤務し、台湾東部での野球の普及活動にも尽力した。 蘇正生(そ しょうせい) 演 - 陳勁宏 1912年 - 2008年。センター・2番。本島人。テニス部員だったが、野球部の流れ弾をラケットで打ち返したことから、近藤に乞われて野球部へ転部する。当時世界最大と言われた甲子園球場で、打球を最も遠い外野レフトスタンドの壁に当てた初のアジア人選手となった。 卒業後は横浜専門学校(現:神奈川大学)、嘉義実業団野球部で活躍。その後もコーチや審判を努めて台湾の野球発展に貢献し、「台湾野球界の国宝」とも呼ばれた。部員の中では最も長命で、本作で描かれたエピソードは脚本執筆時に存命だった蘇からの聞き取りによるものも多い。 福島又男(ふくしま またお) 演 - 山室光太朗 1912年 - ?。ライト・9番。内地人。「鉄壁のトライアングル」の一人。ライトに飛んだ打球は福島を越えることはできないと言われるほどの守備能力の持ち主。決勝戦で対戦相手の中京商業に押され気味の中、ヒットを放って反撃に転ずる機会を作った。 1933年の甲子園大会にもレフトとして出場し、卒業後は台南州庁に勤務して課長まで昇進したが、太平洋戦争で召集され、南洋で戦死した。 劉蒼麟(りゅう そうりん) 演 - 陳永欣 1913年 - 2001年。控え投手。テニス部から転部してきた本島人(漢人)。甲子園では呉明捷が完投したため登坂機会はなく、記録員や伝令として活躍する。 翌年にはレギュラーとなり出場した。卒業後は台中の郵便局に勤務し、勤務先の野球部で活躍した他、戦後は嘉農野球部の監督も務めた。劉の息子たちも投手になり、台湾野球界で活躍した。 崎山敏雄(さきやま としお) 演 - 周竣豪 補欠選手。内地人。 1933年の甲子園大会には外野手として出場した。 大江光夫(おおえ みつお) 演 - 鄭秉宏 前捕手。内地人。呉明捷の自転車によく乗せてもらっている。近藤監督の就任後、部員を鼓舞しながら奮闘するが、1勝もできないまま、甲子園出場を前に卒業した。(架空人物) 斉藤公好(さいとう きみよし) 演 - 蔡佑梵 前投手。内地人。部員では唯一眼鏡をかけている。甲子園出場を前に卒業した。(架空人物) 呉波(ご は) 演 - 魏祈安 1916年 - 1987年。嘉農野球部に憧れ、練習場に出入りしている少年。本島人(漢人)。小里の弟分的存在でよく行動を共にしており、近藤に懇願して練習の手伝いをするようになった。 後に入部して投手・外野手となり、甲子園大会にも出場した。卒業後は呉昌征と改名、日本でプロ野球選手となり、戦前は東京巨人軍で2年連続首位打者に輝き、「人間機関車」と呼ばれた。のち阪神軍に移籍、戦後は野手だけでなく投手としても活躍し、ノーヒットノーランも達成。台湾出身選手としては初の殿堂入りも果たした名選手となる。
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