嘉義農林学校野球部とは? わかりやすく解説

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嘉義農林学校(嘉農)野球部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 02:00 UTC 版)

KANO 1931海の向こうの甲子園」の記事における「嘉義農林学校嘉農野球部」の解説

近藤兵太郎こんどう ひょうたろう) 演 - 永瀬正敏 嘉農野球部新任監督内地人。愛媛県立松山商学校を初の全国出場へと導いたのち、台湾へ赴き会計士となった松山時代いきさつから、嘉農野球部の監督就任依頼受けて渋っていたが、練習風景を偶然見たのを機に監督就任する甲子園初出場準優勝した後も嘉農野球指導続け甲子園には春1回、夏4回出場した戦後故郷愛媛県松山市引き揚げた後も新田高等学校愛媛大学野球部監督務めた濱田次箕(はまだ つぎみ) 演 - 吉岡そんれい 嘉農農業教師で、野球部部長務める。近藤監督就任粘り強く依頼する教職傍らバナナパパイヤ品種改良取り組んでおり、パパイヤの実になぞらえて呉と平野にかけた励まし言葉が、甲子園出場した彼らの心の支えとなる。 呉明捷(ご めいしょう) 演 - 曹佑寧 1911年 - 1983年野球部主将投手)。4番バッター本島人客家)。あだ名は名前の一文字「明」を日本人風にした「アキラ」。近藤によって投手抜擢され全島大会1回戦では完全試合甲子園では全試合完投2回戦の対神奈川商工戦では完封)した。甲子園ではその圧倒的な投球から「麒麟児」と呼ばれた卒業後は早稲田大学進学し台湾籍のまま日本暮らした実の息子と孫が本作端役出演している(息子嘉義市長役、孫が台北商業投手役)。 東和一(あずま かずいち) 演 - 謝竣晟 1906年 - 1980年捕手5番本島人アミ族本名ラワイ漢名徳和)。試合中どのような場面でも常に冷静にサインを出すことから「神捕」と呼ばれた甲子園決勝戦で、指を負傷して完投を望む呉明捷を「わがままだ」と批判するが、彼の強い決意知ってチーム一丸となってサポートする卒業後は故郷台東教師となり、野球チーム結成してその指導にもあたった。弟の東公文徳明)も嘉農野球部活躍し1935年1936年甲子園大会いずれも夏)に投手として出場した息子は元台湾プロ野球文成小里初雄(こざと はつお) 演 - 大倉裕真 1914年 - 1988年ファースト7番大阪出身内地人で「鉄壁トライアングル」の一人父親嘉南大圳建設従事する技師父親怪我原因野球部一時離れたが、後に復帰する甲子園決勝戦で指を負傷した呉明捷に、自分たちで守り抜くので直球投げて打たせるよう勧める卒業後は台湾総督府専売局勤務し戦後日本へ帰国して専売公社勤務した川原信男(かわはら のぶお) 演 - 飯田のえる 1917年 - 1945年セカンド・8番。内地人。チームメンバーでは最年少守備優れた鉄壁トライアングル」の一人であり、数多くファインプレー見せた。球縫いが得意という一面持っている1933年甲子園大会にも捕手として出場し卒業後は嘉義農林署に勤務したが、のちに太平洋戦争召集され南洋戦死した。 真山卯一(まやま ういち) 演 - 謝竣倢 1908年 - 2003年サード・6番。本島アミ族本名:マヤウ、漢名:拓弘山)。俊足誇り台湾全島大会決勝戦台湾野球史上初の本盗成功させ、盗塁王となった戦後教師となり、チームメイトだった上松耕一校長務め台東農業学校などで教鞭をとり、「アジアの鉄人」と呼ばれた陸上五輪メダリスト楊伝廣育てたことでも知られる退職後は亡くなるまでエホバの証人宣教活動従事した上松耕一あげまつ こういち) 演 - 鐘硯誠 1905年 - 1958年ショート3番本島プユマ族本名:アジワツ、漢名陳耕元)。甲子園史上最年長選手当時26歳)。試合中川原とともに歌をよく歌っている。 卒業後、横浜商業専門学校進学し台湾帰国した後は嘉農教員となり、野球部コーチになった戦後故郷台東農業学校校長となり、同校野球部の監督務めたが、1958年交通事故のため死去した息子は元台東県知事陳建年で、孫娘現役国会議員陳瑩平野保郎(ひらの やすろう) 演 - 張弘邑 1908年 - 1982年レフト・1番。本島アミ族本名ポロ漢名:羅保農)。陸上部マラソン選手だったが、足の速さ見込まれ野球部抜擢される。選球眼優れ打率.530という強打者であり、甲子園準々決勝(対札幌商)では嘉農出場史上唯一となるホームラン打った台湾代表チームとしても最後ホームランとなる)。また、俊足活かして盗塁数多く成功させる呉明捷卒業後は投手となり、川原バッテリー組んで1933年甲子園大会にも出場した卒業後は故郷台東農業試験場勤務し台湾東部での野球普及活動にも尽力した正生(そ しょうせい) 演 - 陳勁宏 1912年 - 2008年センター2番本島人テニス部員だったが、野球部流れ弾ラケット打ち返したことから、近藤に乞われて野球部転部する。当時世界最大と言われ甲子園球場で、打球を最も遠い外野レフトスタンドの壁に当てた初のアジア人選手となった卒業後は横浜専門学校(現:神奈川大学)、嘉義実業団野球部活躍その後コーチ審判努めて台湾野球発展貢献し、「台湾野球界の国宝」とも呼ばれた部員の中では最も長命で、本作描かれエピソード脚本執筆時に存命だったからの聞き取りよるものも多い。 福島又男(ふくしま またお) 演 - 山室光太1912年 - ?。ライト・9番。内地人。「鉄壁トライアングル」の一人ライト飛んだ打球福島越えることはできないと言われるほどの守備能力持ち主決勝戦対戦相手中京商業に押され気味の中、ヒット放って反撃転ずる機会作った1933年甲子園大会にもレフトとして出場し卒業後は台南州庁勤務して課長まで昇進したが、太平洋戦争召集され南洋戦死した劉蒼麟(りゅう そうりん) 演 - 陳永1913年 - 2001年控え投手テニス部から転部してきた本島人漢人)。甲子園では呉明捷完投したため登坂機会はなく、記録員伝令として活躍する翌年にはレギュラーとなり出場した卒業後は台中郵便局勤務し勤務先野球部活躍した他、戦後嘉農野球部の監督務めた。劉の息子たち投手になり、台湾野球界で活躍した崎山敏雄(さきやま としお) 演 - 周竣豪 補欠選手内地人。 1933年甲子園大会には外野手として出場した大江光夫(おおえ みつお) 演 - 鄭秉宏 前捕手内地人。呉明捷自転車によく乗せてもらっている。近藤監督就任後部員鼓舞しながら奮闘するが、1勝もできないまま、甲子園出場前に卒業した。(架空人物斉藤公好(さいとう きみよし) 演 - 蔡佑梵 前投手内地人。部員では唯一眼鏡をかけている。甲子園出場前に卒業した。(架空人物) 呉波(ご は) 演 - 魏祈安 1916年 - 1987年嘉農野球部憧れ練習場出入りしている少年本島人漢人)。小里弟分存在でよく行動を共にしており、近藤懇願して練習の手伝いをするようになった。 後に入部して投手外野手となり、甲子園大会にも出場した卒業後は呉昌征改名日本プロ野球選手となり、戦前東京巨人軍2年連続首位打者輝き、「人間機関車」と呼ばれた。のち阪神軍移籍戦後野手だけでなく投手としても活躍しノーヒットノーラン達成台湾出身選手としては初の殿堂入り果たした選手となる。

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