創祀と創建
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 07:07 UTC 版)
草薙神剣は、素盞嗚尊がヤマタノオロチを退治したときにその尾から生まれたものという。『古事記』(上巻)に「都牟刈の大刀(つむがりのたち)」(鋭利な太刀の美称)として登場し、『日本書紀』(巻第一神代上第八段一書の1)は元の名を「天叢雲劔(あまのむらくものつるぎ)」というとする。一説に、天照大神が天岩屋から招出されたときの礼代(いやじろ)として八咫鏡と共に奉られ、後にヤマタノオロチに奪われたものの素盞嗚尊がそれを取り返したともいわれるが、この神剣が素盞嗚尊によって天照大神へ献上あるいは返還されたことにより、厳然たる「大御神の霊物」として神威をふるうことになる。天照大神が天孫降臨の神勅を下すにあたってこの神剣に霊魂を込め、神鏡(八咫鏡)・神璽(八尺瓊勾玉)と共に邇邇芸命(ににぎのみこと)に授けて以来、天皇家はこれを宝祚の守護(三種の神器)として宮中に祀ってきた。しかし第10代崇神天皇の治世に至って天照大神の神威がますます盛んとなり、同殿共床にあるのは畏れ多いという理由から、豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)をしてその神霊を斎き奉らしめながら宮中より出ることになる。豊鍬入姫命を「御杖代」とし、理想的な鎮座地を求めて始まった天照大神の遍歴は、御杖代を引き継いだ倭姫命(やまとひめのみこと)の代に、伊勢国の五十鈴川河畔の地をもって終焉を迎える。すなわち、神宮(伊勢神宮)の創祀であり、ここに皇居と神宮の分離が初めてなされることになる。 この後、神剣は伊勢の神宮から氷上邑(ひかみのさと、現在の名古屋市緑区大高町火上山付近を指すと言われる)を経て、さらに熱田へ遷ることになるのだが、この経緯を記すのは『記紀』や『尾張国風土記』逸文(8世紀頃、『釈日本紀』七)の他に、熱田神宮に関する最古にして根本を成す縁起として知られた『尾張国熱田太神宮縁記(おわりのくにあつただいじんぐうえんぎ)』がある。本書は874年(貞観16年)に熱田社別当であった尾張清稲により記述され、さらに890年(寛平2年)10月に国司であった藤原村椙が筆削を加えたものといわれるが、尾張清稲・藤原村椙という両名の人物像が不確かなこと、当時代の記述としてはいくつか矛盾をはらんでいることなどから、その成立は平安時代ではなく鎌倉時代初頭の成立とする説も根強い。以下は、本書による神剣創祀までの経緯である。 景行天皇40年10月2日、景行天皇の意を受けて東征の旅に出た皇子日本武尊は、途中神宮に立ち寄り、姨(おば)にあたる倭姫命から嚢(ふくろ)と共に草薙神剣を賜る。さらに旅を続けて尾張国の愛知郡に至ったとき、侍従の将であった建稲種命に誘われ、命の故郷であった氷上邑の館で休息することになった。尊はそこで、見目うるわしい娘がいるのを知り、その名を問うたところ、娘は建稲種命の妹で宮酢媛といった。尊は媛を召し出して契りを交わし、いつくしみ、この地に長く逗留したが、やがて旅立ちの時になり、媛との別れを惜しんだ。 やがて東征を成して再び氷上邑の館に到着した尊は、宮酢媛と再会し、数首の歌を交わすなどしながら媛との日々を過ごす毎日であった。旅立ちに際して剣を解き、これを宝物として持ち床の守りとするよう、媛に差し出した。これから向かう伊吹山に暴悪の神がはびこるのを懸念する近習(大伴建日臣)であったが、尊は剣を留めたまま出発した。その伊吹山において尊は暴風雨にさらされて心身を痛め、尾張国に戻ろうとしたが、鈴鹿山を越えたあたりで危篤となり、媛の床にある大刀を偲ぶ辞世の歌を詠じた後、鈴鹿川の中瀬でみまかってしまう。 遠登賣能(をとめの)。登許能辨爾(とこのへに)。和賀於岐斯(わかおきし)。都留岐能多知(つるきのたち)。曾能多知波夜(そのたちはや)。 — 日本武尊、『尾張国熱田太神宮縁記』 皇子の訃報を耳にした天皇は昼夜を問わずにむせび泣き、尊の遺骸を能褒野(のぼの)の地に葬らせた。このとき、尊は白鳥の姿となって御陵から飛び出し、大和国琴弾原、河内国志紀郡古市里に転々と降り立った後、そのまま天に昇っていった。宮酢媛は、尊との約束を違えず、独りで床を守り、草薙神剣を奉っていた。やがて老いたとき、身近な人々を集め、草薙神剣を鎮守するための社地の選定を諮った。ある楓の木があり、自ら炎を発して燃え続け、水田に倒れても炎は消えず、水田もなお熱かった。ここを熱田と号して、社地に定めたという。そして、媛はみまかり、居宅のあった氷上邑に祠が建てられ、氷上姉子天神として神霊が奉じられることになる。 『尾張国熱田太神宮縁記』による熱田神宮および氷上姉子神社創建までの顛末は上記のようである。本書は『日本書紀』を主として『古事記』や『尾張国風土記』を含む多くの資料を引用しているとみられており、本書自体に独自性は乏しいといわれる。他方、原典の記述に対して曲解がほとんどみられず忠実な引用がなされているともいわれ、成立は鎌倉時代であっても、内容そのものは平安時代もしくはそれ以前のものとしての資料的価値を有するとされる。そして何より、建稲種命に氷上邑の館へ案内されたこと、ここで宮酢媛と出会い共に日々を過ごしたこと、東征の帰途に再び氷上邑に立ち寄ったことなどは本書独特の記述であり、とりわけ草薙神剣を預かった宮酢媛が占卜によって熱田を創祀の地に選んだとする記述は、天照大神の神器が天皇家・伊勢神宮を経て熱田にもたらされたことを示し、熱田神宮がその尊貴な正統性を誇示する重要なポイントとなっている。ただし尾崎久彌が指摘するように、『尾張国熱田太神宮縁記』では社地に選んだ地(熱田)がなぜ熱田と呼ばれるようになったのかという説明がなされるだけで、社地を定めたはよいものの社祠がいつ創建され草薙神剣がいつそちらに遷座されたか、あるいは社祠の創建や遷座そのものがなされたかどうかが記されていない。また、尊亡きあと媛が草薙神剣を守り奉じていたところ、すなわち遷座元も、じつは曖昧な記述になっている(熱田であったとも氷上邑であったとも記されていない)。こうした『尾張国熱田太神宮縁記』の不明瞭さを補うのが後年に登場する各種縁起や史書となる。 熱田神宮は創祀1,900年目に当たるとされた2013年(平成25年)に「創祀千九百年大祭」を執行しているが、これは創祀年を景行天皇43年(西暦に換算すると113年にあたるという)とした中世の『熱田大神宮御鎮座次第本紀』などの説に基づいたものである。ところがこの創祀年についても近代よりまちまちにいわれ、景行天皇43年とする説のほかに、同41年、同49年などとする説も生まれた。景行天皇41年は『熱田宮旧記』(1699年(元禄12年))などにみえ、その根拠は『日本書紀』が景行天皇27年に日本武尊の年齢を16歳と記し、40年から43年の間に30歳で没したと記しているためで、明治時代に至っても角田忠行が採用していた説である。日本武尊の御陵ともいわれた白鳥御陵(白鳥古墳)において毎年4月8日に行われていた祭典は日本武尊が景行天皇41年4月8日に没したとする伝承に基づくものであった。景行天皇49年は上記の『熱田大神宮御鎮座次第本紀』が一説として紹介している年で、江戸時代には天野信景らが支持した説である。尾張にあった神剣が一度は伊勢に戻され、詔勅により改めて尾張に届けられたという時間的ロスに伴う年代の繰り下げである。 ところで、草薙神剣の創祀と熱田神宮の創建とは年代が異なることについて角田忠行が注意を喚起している点は興味深い。景行天皇43年(もしくは41年、49年)は草薙神剣が宮簀媛によって創祀された初年を指すのであって、熱田神宮の創建はずっと時代が下った仲哀天皇元年であるとも646年(大化2年)であるともいわれる。『尾張志』は、『尾張国氷上宮開始正伝本起』にある宮簀媛命の死去年を仲哀天皇4年とする記述に着目し、天皇の在位期間や宮簀媛命の年齢などをさまざまに勘案した上で、草薙神剣が尾張国にもたらされた(草薙神剣が日本武尊から宮簀媛命に預けられた)のが景行天皇40年(媛の年齢は15歳ほど)、草薙御剣の創祀を景行天皇43年(媛の年齢は18歳ほど)、老媛が草薙神剣の遷座地を熱田に占定したのを成務天皇年間末から仲哀天皇元年(媛の年齢は92歳ほど)であると見なした。老媛はこの4年後に96歳ほどで死去することになる。角田もまた、日本武尊の死去からおよそ80年間、草薙神剣は尾張国造の神床において宮簀媛命に奉斎されてきたことを指摘する。かたや、『朱鳥官符』(平安時代末期頃か)は646年(大化2年)5月1日に熱田大明神の託宣によって草薙神剣が愛知郡衛崎松姖嶋機綾村(えさきまつこのしまはたやのむら)に遷されたと記す。『熱田正縁記』はこれを補強し、景行天皇41年に草薙御剣が氷上邑にもたらされ、やがて老いた宮簀媛によって松姖嶋に社が立てられ草薙神剣が収められ、646年(大化2年)に尾張忠命という人物によって愛知郡会崎機綾村(えさきはたやのむら)に遷座されたという。
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