創祀から平安まで(八坂造家)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 22:43 UTC 版)
「宝寿院 (祇園社の社家)」の記事における「創祀から平安まで(八坂造家)」の解説
祇園社の創祀については必ずしも明確ではないが、斉明天皇の時代に外交使節として来朝した高句麗人が現在の東山八坂郷一帯の土地を与えられ八坂造家となり、その地に朝鮮半島由来の祖先神を祀ったことに淵源を有するとされ、それが後に当地に建立された仏教寺院と習合し、漸次の発展と変容を遂げながら、最終的には、牛頭天王・スサノオ・武答天神・薬師如来等を同一の存在として祀る神仏習合の寺社となったものと考えられている。この高句麗人は日本書紀に記載のある伊利之とされ、この子孫が八坂造として八坂郷及び祖先神の祭祀を継承してきたところ、これを紀百継が婿養子として継承し、八坂造家と紀氏が統合され紀姓を名乗るようになって以来、この地は紀氏の祭祀の地になったとされ、これが八坂神社の公式見解である 。すなわち、祇園執行家は渡来系の八坂造家と古代貴族の皇別紀氏の二つの家系が一つとなって成立したものとされているが、学説からはこの時代の祇園社と八坂造家との関係には史料がすくなく不明な点が多いことから批判もあり、貞観年間に成立したとされる祇園社について、紀氏がどのように祭祀に関与していたかについて学説上の定説はない。
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