企画書脱稿までの経緯
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「千と千尋の神隠し」の記事における「企画書脱稿までの経緯」の解説
宮崎駿は信州に山小屋を持っており、毎年夏になるとジブリ関係者の娘たちを招いて合宿を行っていた。宮崎は子どもたちを赤ん坊のころから知っており、「幼いガールフレンド」という言い方もしている。少女たちは宮崎を「お山のおじさん」と呼んでおり、その頃はまだ映画監督とは思っていなかった。『もののけ姫』公開直後の1997年8月、制作に疲れ果てた宮崎は山小屋で静養し、「幼いガールフレンド」たちの訪問を楽しみにしていた。同年9月ごろ、宮崎に次回作への意欲が灯りはじめる。山小屋には『りぼん』や『なかよし』といった少女漫画雑誌が残されていた。宮崎は過去にも、山小屋に置かれていた少女漫画誌から映画の原作を見つけ出している(『耳をすませば』や『コクリコ坂から』)。しかし今回は、漫画の内容が恋愛ものばかりであることに不満を抱いた。山小屋に集まる子どもたちと同じ年齢の、10歳の少女たちが心に抱えているものや、本当に必要としているものは、別にあるのではないか。美しく聡明なヒロインではなく、どこにでもいるような10歳の少女を主人公に据え、しかも安易な成長物語に流れないような映画を作ることができるのではないか。少女が世間の荒波に揉まれたときに、もともと隠し持っていた能力が溢れ出てくるというような、そんな物語が作れるのではないか。このように考えた。当時宮崎は、思春期前後の少女向け映画を作ったことがなかったので、「幼いガールフレンド」たちに向けて映画をプレゼントすることが目標になった。宮崎は『パンダコパンダ』(1972年)のとき、自分の子供を楽しませようという動機でアニメーションを制作した。顔の浮かぶ特定の個人に向けて映画を作るという経験はそれ以来のことだった。しかし宮崎駿は、『もののけ姫』の製作中からしきりに監督引退をほのめかしており、1997年6月の完成披露試写会以降、「引退」発言はマスメディアを賑わせていた。当時はまだ引退の心づもりは変わらず、次回作ではシナリオと絵コンテは担当しても、監督は別人を立てるつもりでいた。 1998年3月26日、スタジオジブリの企画検討会議で、柏葉幸子『霧のむこうのふしぎな町』(1975年、講談社)が案に挙がる。小学6年生の少女が「霧の谷」を訪れ、魔法使いの末裔たちが営む不思議な商店街で働きはじめるという筋のファンタジー小説だった。この原作は以前から企画検討にかけられており、1995年の『耳をすませば』では天沢聖司が『霧のむこうのふしぎな町』を読む場面が組み込まれている。宮崎は、柏葉の原作をもとに『ゴチャガチャ通りのリナ』というタイトルで企画に取り組む。しかし、これは早々に断念された。 次に、新企画『煙突描きのリン』がはじまった。1998年6月、小金井市梶野町のスタジオジブリ付近に事務所「豚屋」が完成、宮崎の個人事務所二馬力のアトリエとして使われることになった。宮崎はここで新企画に取り組みはじめた。『煙突描きのリン』は、大地震に見まわれた東京を舞台にした映画で、銭湯の煙突に絵を描く18歳の画学生、リンが、東京を影で支配する集団と戦うという物語であった。作品の背景には、現代美術家荒川修作の影響があり、荒川をモデルにした登場人物も用意されていた。宮崎は1998年に養老天命反転地を訪れて気に入り、荒川とも対談して意気投合している。プロデューサーの鈴木敏夫によれば、リンと敵対する集団のボスは宮崎自身が投影された60歳の老人であり、しかもこの老人と18歳の主人公のリンが恋に落ちる展開が用意されていたという。 1998年6月から約1年間進められた『煙突描きのリン』の企画は、1999年8月、突如廃案になった。鈴木敏夫によれば、次のような出来事があったという。鈴木は、1998年に公開されヒットしていた映画『踊る大捜査線 THE MOVIE』(本広克行監督)を遅れて鑑賞する。若手の監督によって同時代の若者の気分がリアルに表現されていることに衝撃を受け、同時に、宮崎の描く若い女性が現代の若者像として説得力を持ちえるのかどうか疑問を抱く。鈴木は映画を観たその足で宮崎のアトリエに赴いた。すでに『煙突描きのリン』の企画はかなり進んでおり、アトリエの壁面には数多くのイメージボードが貼りつけられていた。イメージボードとは、作品のおおまかなイメージをスタッフと共有するために、アニメの代表的なシーンをラフに描き起こしたスケッチである。しかし鈴木はそれには触れず、『踊る大捜査線』の話をしはじめた。 宮さんは僕の話を聞きながら、すっと立ち上がり、壁に貼ってあったイメージボードを一枚一枚はがし始めました。そして、全部まとめて、僕の目の前でゴミ箱の中にバサッと捨てたんです。あの光景はいまでも忘れられません。「この企画はだめだってことだろう、鈴木さん」 — 鈴木敏夫、ジブリの教科書 2016, p. 56 宮崎はその場ですぐ、「千晶の映画をやろうか」と提案した。「千晶」とは、本作の製作担当である奥田誠治の娘、奥田千晶のことである。奥田誠治は日本テレビの社員で、宮崎の友人のひとりだった。奥田千晶は毎年夏に宮崎の山小屋に滞在する「幼いガールフレンド」のひとりであり、鈴木とも親しかった。さらに宮崎は、作品の舞台を江戸東京たてもの園にすることを提案した。江戸東京たてもの園はスタジオジブリにほど近い場所にあり、宮崎・鈴木・高畑勲らの日常的な散歩コースになっていた。身近な場所を舞台に、親しい子供のための映画を作るという宮崎の提案に、鈴木は首を縦に振らざるをえなかった。 ある夏、宮崎らが山小屋の近くの川に沿って散歩をしていると、千晶がピンク色の運動靴を川に落としてしまった。千晶の父と宮崎・鈴木は必死で靴を追いかけ、川から拾い上げた。このエピソードは宮崎の印象に残り、『千と千尋の神隠し』のクライマックスの場面で直接的に使われている。幼いころの千尋はハク(コハク川)から靴を拾おうとして川に落ちたが、そのときの運動靴はピンク色である。また、この靴は、エンドクレジット後の「おわり」のカットでも作画されている。企画は当初、「千の神隠し」という仮題でスタートし、主人公の名前もそのまま「千晶」になっていた。しかし、「教育上よくない」という理由で、「千尋」と改められた。 1999年11月2日、企画書 が書き上げられた。宮崎は企画書の中で大きく分けて次の3点の意図を掲げている。 現代の困難な世の中で危機に直面することで、少女が生きる力を取り戻す姿を描く 言葉の力が軽んじられている現代において、「言葉は意志であり、自分であり、力」であることを描く(千尋は湯婆婆に名前を奪われ、支配されてしまう) 日本の昔話の「直系の子孫」として、日本を舞台にするファンタジーをつくる 「千尋が主人公である資格は、実は喰い尽くされない力にあるといえる。決して、美少女であったり、類まれな心の持ち主だから主人公になるのではない」とし、その上で、本作を「10歳の女の子達のための映画」と位置づけている。 『千と千尋の神隠し』は、『霧のむこうのふしぎな町』、『ゴチャガチャ通りのリナ』、『煙突描きのリン』の影響を部分的に受けてはいるが、キャラクターやストーリー展開の面では完全なオリジナルになった。 本作の制作は、12月13日に東宝が公開した配給作品ラインナップで公にされた。
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