企画書脱稿までの経緯とは? わかりやすく解説

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企画書脱稿までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 17:57 UTC 版)

千と千尋の神隠し」の記事における「企画書脱稿までの経緯」の解説

宮崎駿信州山小屋持っており、毎年夏になるとジブリ関係者娘たち招いて合宿行っていた。宮崎子どもたち赤ん坊ころから知っており、「幼いガールフレンド」という言い方もしている。少女たちは宮崎を「お山おじさん」と呼んでおり、その頃はまだ映画監督とは思っていなかった。『もののけ姫公開直後1997年8月制作疲れ果てた宮崎山小屋静養し、「幼いガールフレンド」たちの訪問楽しみにしていた。同年9月ごろ、宮崎次回作への意欲灯りはじめる。山小屋には『りぼん』や『なかよし』といった少女漫画雑誌残されていた。宮崎過去にも、山小屋置かれていた少女漫画誌から映画原作を見つけ出している(『耳をすませば』や『コクリコ坂から』)。しかし今回は、漫画内容恋愛ものばかりであることに不満を抱いた山小屋に集まる子どもたちと同じ年齢の、10歳少女たちが心に抱えているものや、本当に必要としているものは、別にあるのではないか美しく聡明なヒロインではなく、どこにでもいるような10歳少女主人公据え、しかも安易な成長物語流れないような映画作ることができるのではないか少女世間荒波揉まれたときに、もともと隠し持っていた能力溢れ出てくるというような、そんな物語作れるのではないかこのように考えた当時宮崎は、思春期前後の少女向け映画作ったことがなかったので、「幼いガールフレンド」たちに向けて映画プレゼントすることが目標になった宮崎は『パンダコパンダ』(1972年)のとき、自分の子供を楽しませようという動機アニメーション制作した。顔の浮かぶ特定の個人向けて映画作るという経験それ以来のことだった。しかし宮崎駿は、『もののけ姫』の製作中からしきりに監督引退ほのめかしており、1997年6月完成披露試写会以降、「引退発言マスメディア賑わせていた。当時はまだ引退心づもり変わらず次回作ではシナリオ絵コンテ担当しても、監督別人立てるつもりでいた。 1998年3月26日スタジオジブリ企画検討会議で、柏葉幸子むこうのふしぎな町』(1975年講談社)が案に挙がる小学6年生少女が「霧の谷」を訪れ魔法使い末裔たちが営む不思議な商店街働きはじめるという筋のファンタジー小説だった。この原作以前から企画検討かけられており、1995年『耳をすませば』では天沢聖司が『むこうのふしぎな町』を読む場面組み込まれている。宮崎は、柏葉原作をもとに『ゴチャガチャ通りリナ』というタイトル企画取り組む。しかし、これは早々に断念された。 次に、新企画煙突描きのリン』がはじまった1998年6月小金井市梶野町スタジオジブリ付近に事務所豚屋」が完成宮崎個人事務所二馬力アトリエとして使われることになった宮崎はここで新企画取り組みはじめた。『煙突描きのリン』は、大地震に見まわれた東京舞台にした映画で、銭湯煙突絵を描く18歳画学生、リンが、東京を影で支配する集団と戦うという物語であった作品の背景には、現代美術家荒川修作影響があり、荒川モデルにした登場人物用意されていた。宮崎1998年養老天命反転地訪れて気に入り荒川とも対談し意気投合している。プロデューサー鈴木敏夫によればリン敵対する集団ボス宮崎自身投影され60歳老人であり、しかもこの老人18歳主人公リン恋に落ちる展開が用意されていたという。 1998年6月から約1年間進められた『煙突描きのリン』の企画は、1999年8月突如廃案になった鈴木敏夫によれば次のような出来事があったという。鈴木は、1998年公開されヒットしていた映画踊る大捜査線 THE MOVIE』(本広克行監督)を遅れて鑑賞する若手監督によって同時代若者気分リアルに表現されていることに衝撃を受け、同時に宮崎の描く若い女性現代若者像として説得力持ちえるのかどうか疑問を抱く鈴木映画を観たその足で宮崎アトリエ赴いた。すでに『煙突描きのリン』の企画はかなり進んでおり、アトリエ壁面には数多くのイメージボードが貼りつけられていた。イメージボードとは、作品おおまかなイメージスタッフ共有するために、アニメ代表的なシーンラフに描き起こしスケッチである。しかし鈴木はそれには触れず『踊る大捜査線』の話をしはじめた。 宮さん僕の話聞きながら、すっと立ち上がり、壁に貼ってあったイメージボードを一枚一枚はがし始めました。そして、全部まとめて、僕の目の前でゴミ箱の中バサッと捨てたんです。あの光景はいまでも忘れられません。「この企画はだめだってことだろう、鈴木さん」 — 鈴木敏夫ジブリ教科書 2016, p. 56 宮崎その場ですぐ、「千晶映画をやろうか」と提案した。「千晶」とは、本作製作担当である奥田誠治の娘、奥田千晶のことである。奥田誠治日本テレビ社員で、宮崎友人のひとりだった。奥田千晶毎年夏に宮崎山小屋滞在する「幼いガールフレンド」のひとりであり、鈴木とも親しかった。さらに宮崎は、作品の舞台江戸東京たてもの園にすることを提案した江戸東京たてもの園スタジオジブリほど近い場所にあり、宮崎鈴木高畑勲らの日常的な散歩コースになっていた。身近な所を舞台に、親し子供のための映画作るという宮崎提案に、鈴木は首を縦に振らざるをえなかった。 ある夏、宮崎らが山小屋近くの川に沿って散歩をしていると、千晶ピンク色運動靴を川に落としてしまった。千晶の父と宮崎鈴木必死で靴を追いかけ、川から拾い上げた。このエピソード宮崎印象残り、『千と千尋の神隠し』のクライマックス場面で直接的に使われている。幼いころ千尋ハクコハク川)から靴を拾おうとして川に落ちたが、そのとき運動靴ピンク色である。また、この靴は、エンドクレジット後の「おわり」のカットでも作画されている。企画当初、「千の神隠し」という仮題スタートし主人公の名前そのまま千晶になっていた。しかし、「教育よくない」という理由で、「千尋」と改められた。 1999年11月2日企画書書き上げられた。宮崎企画書の中で大きく分けて次の3点意図掲げている。 現代困難な世の中危機直面することで、少女生きる力取り戻す姿を描く 言葉の力軽んじられている現代において、「言葉意志であり、自分であり、力」であることを描く(千尋湯婆婆に名前を奪われ支配されてしまう) 日本の昔話の「直系の子孫」として、日本舞台にするファンタジーをつくる 「千尋主人公である資格は、実は喰い尽くされない力にあるといえる決して、美少女であったり、類まれな心の持ち主だから主人公になるのではない」とし、その上で本作を「10歳女の子達のための映画」と位置づけている。 『千と千尋の神隠し』は、『むこうのふしぎな町』、『ゴチャガチャ通りリナ』、『煙突描きのリン』の影響部分的に受けてはいるが、キャラクターストーリー展開の面では完全なオリジナルになった本作制作は、12月13日東宝公開した配給作品ラインナップ公にされた。

※この「企画書脱稿までの経緯」の解説は、「千と千尋の神隠し」の解説の一部です。
「企画書脱稿までの経緯」を含む「千と千尋の神隠し」の記事については、「千と千尋の神隠し」の概要を参照ください。

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