下り線門司方シールド工法部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:37 UTC 版)
「関門トンネル (山陽本線)」の記事における「下り線門司方シールド工法部」の解説
シールド工法部は、門司方の立坑である511K870M地点から海底部へ向けて発進し、当初は511K100M付近までの770メートルを掘削する予定であったが、実際には725.8メートルを掘削した。 シールド工法に圧気工法を組み合わせる場合、トンネル直径と同じ程度の土被りを確保することが最低限必要であるとされ、実際にトンネルルートはこの条件を満たしていた。しかし土圧がアンバランスにかかるのを防ぎ、土被りの余裕を確保するために、土被りがもっとも少ない海底部には粘土と捨石を投入する粘土被覆(クレインブランケット、海底を粘土で覆うこと)を施工する方針とした。1938年(昭和13年)10月から1940年(昭和15年)1月までかけて、土被りが薄い全長約240メートル区間にわたり、試掘坑道中心から左右それぞれ35メートルの幅に、粘土を約7万立方メートル、捨石を約4万5,000立方メートル投入し、最大4.7メートルの厚さの被覆を行って、土被りとして最低10メートルを確保した。 シールドマシンは、立坑内に組立台を設置してその上で組み立て、その後ろには5輪環(5リング)分の環片をあらかじめ組み立てて、これを利用してシールドジャッキの推進力を立坑に伝えるようにした。組立に2か月、装備品の設置に3か月、推進ジャッキ類の設置に半月、推進準備に半月と、実際に推進できるようになるまで約6か月を要した。装備に3か月かかったのは、山留ジャッキや環片組立機の納入遅れに加えて、こうした作業に不慣れであったことによる。シールドを発進させる立坑は半径600メートルの曲線区間にあるが、シールド工法区間の断面が普通工法区間に比べてかなりの余裕があることを利用して、当初は練習のために約14メートルを直線で進行して、その後、本来の曲線に沿って掘削を進めることにした。シールド発進時は、立坑自体を圧気することにしたため、仮の蓋を設置した。 1939年(昭和14年)5月29日14時に初めてシールドマシンの推進を行い、47センチメートル前進した。翌30日に約11時間かけて環片の組み立てを実施した。6月7日から坑内への圧気が開始された。こうしてシールドが稼働し始めてまもなくの6月25日に、シールド工事の主任技師を務めていた斉藤眞平技師が立坑の梯子を登っているときに足を踏み外して立坑の底に転落し、病院に運ばれたものの当日中に亡くなった。シールド工事は、当初は環片組立に手間取り、1輪環分の掘削30.5立方メートルを1日3交代制のうち1交代半程度を要し、1日1輪環程度の進行に留まっていた。1939年(昭和14年)8月21日には、第58輪環を進行中に切羽の右側が崩落する事故を起こした。これは調査により、切羽を抑えるジャッキが緩んでいたことが判明した。 坑内の資材運搬・ズリ搬出用線路は当初単線であったため作業が円滑でなかったが、7月29日に複線化し、1日1.3輪環程度進行するようになった。8月下旬になると、シールド側に可搬ポイントを接続してシールドとともに前進するようにし、空いた隙間に1回の前進距離の75センチメートル単位で接続できる短尺レールを取りつけるようにしたことで、さらに作業が円滑になり、1日1.7輪環程度の進行が得られるようになった。立坑のデリッククレーンによるズリ搬出・資材搬入によって進行速度が制約されるようになったことから、9月に入り坑内に圧気作業を区切る第1隔壁を構築する作業を開始し、立坑はエレベーターに改築することになった。 第1隔壁の構築完了後、一時的にシールド作業を中止して、第1隔壁より立坑側を排気し、立坑仮蓋を撤去してエレベーターの設置工事を行った。1940年(昭和15年)1月15日に整備作業が完了してシールド工事が再開された。エレベーターの整備が完了したことにより、搬出入作業にはほとんど制約を受けることがなくなり、これ以降の作業の進行はほぼ掘削作業に左右されることになった。以降は1日平均2.87輪環の進捗を記録するようになった。これは、1日3交代制で各交代ごとに1輪環進行する作業を1週間継続し、そのうち1交代分だけ作業を停止するのに相当する進行度である。湧水量は少なく、気圧を12ポンド重毎平方インチ(約8万2,000パスカル=約0.82気圧)まで下げても問題がなかった。海岸が近づいてきて次第に湧水が増えてきたため、次第に気圧を増加させたが23ポンド重毎平方インチ(約15万8,600パスカル=約1.57気圧)程度で順調に進行することができた。1940年(昭和15年)7月19日、シールドが立坑から460メートルに達して海底下30メートル程度まで進行した時点で、おおむね海岸線の位置に第2隔壁の構築を始め、8月31日から掘削を再開した。 9月に入ると、それまで真砂土であったのが地質が変化し始め、軟岩や粘土層などが出現するようになった。10月に入ると貝殻交じりの粘土になり、湧水量が増加したため坑内の気圧を増加させなければならなくなった。湧水量はますます増加していき、ついに坑内気圧を30ポンド重毎平方インチ(約20万6,800パスカル=約2.04気圧)まで増大させることになり、このために作業員の作業時間は1交代で5時間に制限されて4交代制となった。シールドはスカスカの粘土層に浮いている状態となり、下部を掘削すると湧水量が増大するため下部の掘削が不十分な状態でシールドを前進させることになり、このためにシールドが下へ傾いて、傾きを修正するのに大変な苦労をすることになった。10月23日にはさらに大出水があり、34ポンド重毎平方インチ(約23万4,400パスカル=約2.31気圧)まで坑内気圧を上げたため、作業時間は4時間に制限された。人員不足で4交代制以上に増やせなかったため、1日8時間は何も作業ができない時間が生じることになった。粘土層に入ったことによりシールドは下降し始め、上向きに戻すために苦闘したが、最大で188ミリメートルまで下降してしまい、蛇行限界を超過してトンネルの勾配に影響を与えかねないところまで計画勾配からの逸脱が進んだ。10月30日に下部がかなり緻密で堅い層に入ったことからシールドは上昇に転じ、沈下についてはようやく危機を脱することになった。11月2日になり、さらに湧水量が増大したため、ついに37ポンド重毎平方インチ(約25万5,100パスカル=約2.52気圧)まで坑内気圧を上昇させた。このような高気圧を採用したことでついに湧水量も減少するようになり、作業が順調に進行するようになった。11月18日から5交代制を、12月2日から6交代制を採用できるようになり、1日2輪環程度の進行となった。しかし、貝殻交じりの層がさらに増えてきて空気の漏洩が増え、坑内気圧を維持するために空気圧縮機の運転台数が増大していった。シールド内の高圧空気が貝殻層を通じて漏れ、気泡が海面に溢れている状況であり、仮に坑内の気圧を下げると、この空気が漏れていく経路は一転して水の流入経路となってしまうのは明らかであった。 12月9日になり、立坑から671メートル付近で第883輪環を掘削しているときに、下部から腐食した変成岩が現れ、その後次第に上に上ってきた。この層は掘削が容易でかつ湧水がなく、下関側の岩盤に達するまで残り約50メートルであったことから、これで下関側まで容易に到達できるめどが立ったと楽観するようになった。しかし12月10日の深夜、海上において4,000トン級の貨物船の衝突事故があり、船の舳を海底に引きずって流されるという事件があった。早速潜水夫を送って調査したところ、シールドの先端から約25メートルの海底に幅3メートル、深さ2、3メートル程度の大きな溝ができていることが判明した。シールドとはまだ距離があり、漏気量も変化しないため、そのまま掘削を続けながら、並行してこの部分に捨て粘土を行うことになった。ところが掘削を進めていると、予想に反して変成岩層は下方へ消えて貝殻交じりの粘土層となり、さらに純貝殻層に入ってしまった。湧水量が増大し、漏気も増大して400馬力空気圧縮機を4台運転し続けなければ坑内の気圧を維持できなくなった。 こうして苦闘していた12月22日の7時23分ごろ、停電事故が発生した。門司側の給電を行っていた九州電気軌道の砂津 - 大谷間の送電ケーブル焼損によるものであった。当時、10分間停電すると坑内圧の低下により致命的な大事故の発生する危険がある状況であったが、幸い7分で送電が復旧し、トンネルが大事故に見舞われることを辛うじて回避することができた。送電ケーブルは2回線あるうちの1回線が焼損事故で失われ、九州電気軌道では残り1回線で送電を継続し、一般電力を制限してまでも工事現場への供給維持に努めたが、送電線の容量を超過しており、いつ再度の事故を引き起こすかわからない状況であった。送電ケーブル修理の特殊技術者を飛行機で招いて復旧工事に努めたが、復旧完了には日数を要する状況であり、停電の危険のある状況で空気圧縮機を多数稼動させ続けなければならないほどの漏気状態を放置して掘削工事を続けるわけにはいかなかった。このためシールドの推進は一時的に中止し、漏気対策工事を実施することになった。 まずシールドの前面に粘土を貼りつける作業を行い、切羽からの漏気を防止した。これにより漏気量は毎分約1万7,000立方フィート(約481立方メートル)から毎分約6,000立方フィート(約170立方メートル)まで減少した。またシールドの前面、下関方の底設導坑、および試掘坑道からボーリングを行ってセメント注入作業を行った。船舶事故による海底の損傷個所からの空気漏洩は激しく、海面が白く泡立ち、一時は関門トンネルが崩壊に瀕しているとの流言が飛ぶほどであった。この場所に新たな被覆を行うことにしたが、当初は漏洩する空気に妨害されて投入した土俵が踊って流されてしまい、効果を発揮しなかった。シールド前面の粘土貼り作業により漏気量が減ったため、ようやく投入作業が順調にいくようになり、所定の被覆作業を完了した。 1941年(昭和16年)2月24日から、第901輪環の作業が再開された。引き続き湧水と漏気は見られたが、セメントや薬液が回っていたため湧水が多くなっても崩壊することがなく、このため湧水の増加を許容する代わりに坑内気圧を下げて漏気量を減らすことができた。3月に入り再び岩盤の層が下部から現れ、3月18日には第935輪環において全断面が変成岩の中に入って、ようやく難関を突破することができた。シールド側は圧気をかけていたため、下関側との貫通に備えて下関側の底設導坑にも気閘を設置した。シールド切羽から底設導坑を先進させ、3月30日にボーリングにより下関側と貫通した。測量したところ、高さに差はなく、左右方向に約15センチメートルの差が生じていた。4月5日に第951輪環の推進を行い、下り線トンネルにおけるシールド工法が終了した。シールド推進完了後、シールドマシンの外側の部分は埋め殺しにしたが、内部の環片組立機やジャッキ類などは撤去を行った。
※この「下り線門司方シールド工法部」の解説は、「関門トンネル (山陽本線)」の解説の一部です。
「下り線門司方シールド工法部」を含む「関門トンネル (山陽本線)」の記事については、「関門トンネル (山陽本線)」の概要を参照ください。
- 下り線門司方シールド工法部のページへのリンク