下り線下関方取付部
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「関門トンネル (山陽本線)」の記事における「下り線下関方取付部」の解説
下り線の下関方陸上取付部は、入口から下関方立坑までの1405.14メートルで、普通の山岳トンネルと同様の施工を行った。地質は入口から約900メートルが玢岩および風化した輝緑凝灰岩、残りの約500メートルが硬質な輝緑凝灰岩であった。湧水はそれほど多くないと予想されたが、入口から下り勾配で建設するのは困難であると予想され、入口付近にはズリの捨て場として妥当な場所もなかった。一方で立坑から掘削すると海底部の工事と競合することになることから、結局509K580M付近に斜坑を建設してここから工事に着手することになった。海底部分はその性質から鉄道省の直轄施工であったが、できるだけ直轄施工は少なくする方針であったため、取付部は間組の請負工事とされた。ただし、立坑から509K880Mまでの約400メートルについては、海底区間の施工方法の試験などに用いるために直轄施工とすることになり、またそこから斜坑までは排水のために底設導坑のみ直轄施工とすることになった。 下関方取付部は、1938年(昭和13年)5月3日に着工した。まず、杉田斜坑を509K580M地点に、下り列車進行方向に対して右側から、本線に直角に建設した。勾配は2分の1で、幅4メートル×高さ3メートルの断面とし、松丸太の支保工を用いて掘削して1938年(昭和13年)10月に完成した。なお杉田斜坑は本線トンネル完成後に土砂で埋め戻した。1938年(昭和13年)10月1日から、斜坑から下関方入口へ向けて導坑掘削を開始し、10月28日には下関方入口からの導坑掘削も開始した。1939年(昭和14年)5月20日に入口から263メートル、斜坑から708メートルの地点で貫通した。また斜坑から立坑へ向かっては、斜坑から約90メートル掘削した時点で縦坑側から直轄で掘削してきた底設導坑と1938年(昭和13年)12月23日に貫通した。以降、底設導坑を本断面へ切り広げ、覆工を実施した。 覆工作業中、1940年(昭和15年)2月15日12時45分ごろに509K126M付近において、延長約36メートルにわたって約1,000立方メートルの土砂が崩壊する事故が発生した。崩壊の数日前から降雨が続いて付近一帯の地盤に緩みが生じ、切り広げ工事により平衡を失って崩壊したものと推定された。作業員は坑道を出ていたため人的被害はなかった。この区間の突破作業には65日間を要した。 下関方取付部の工事に伴い、地下水位が低下して井戸が枯渇する被害が発生した。このため下関市に委託して水道の工事を行うとともに見舞金を支払った。また地下水位低下に伴って土地が乾燥し陥没を来たして家屋が傾くなどの被害も生じ、見舞金と復旧工事費を支払った。 下関方取付部は、1940年(昭和15年)6月28日に竣功となった。掘削土砂量約3万2,000立方メートル、覆工コンクリート量約9,400立方メートルで、請負金額は57万7,000円であった。
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