下り線トンネル工事完了
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:37 UTC 版)
「関門トンネル (山陽本線)」の記事における「下り線トンネル工事完了」の解説
下関方からの底設導坑は、511K139Mまで掘削して打ち切ってあった。残りの区間はシールドを使用しなくても圧気工法で掘削できる見込みが立ったため、門司方からのシールドは511K140M付近で打ち切った。シールドの停止後、門司方から今度は頂設導坑を掘削し、下関方から掘削した底設導坑の上を掘り進んでいった。下関方の気閘は511K110Mに建設されており、その上を通り越して511K104M20まで門司方からの頂設導坑を掘削した。これは厚さ2.6メートルほどの地山で圧力差を支えている状態となる。6月2日に圧気工法完了により坑内の減圧が行われた。 排気後にさらに掘削を行い、下関方との残り距離を1メートルまで短縮した。ちょうどこのころ、下関方の第三紀層地帯の掘削も隔壁を残すばかりとなっていたため、同じ日に貫通発破を行うことになった。1941年(昭和16年)7月10日9時、まず第三紀層地帯の貫通発破が行われ、続いて10時に下関方と門司方の間の貫通発破が行われた。貫通点は511K102M50であった。貫通後、切り広げや覆工などを実施するのに約3か月かかった。下り線トンネルの貫通を見届けるように、初代下関工事事務所長だった釘宮磐は8月1日付で退任して東京帝国大学工学部で指導を行うことになり、後任に星野茂樹が着任した。 この時点ではまだ門司方の潜函工法の区間が完成しておらず、潜函工法区間の最後の隔壁が貫通して関門トンネル下り線の全区間がつながるのは1942年(昭和17年)3月27日であった。シールド工法部の竣功は3月29日となった。 トンネルそのものの土木工事に引き続いて、軌道や電力、信号といった工事が実施された。坑内は温度の変化が少ないことから、レールはテルミット溶接により連続敷設された。両側のトンネル口から約246メートルは砂利道床で、中間の約3,122メートルはコンクリート道床である。 トンネル内では電気運転をすることになっていたため、下関方の幡生操車場から門司方の門司操車場までの間を、直流1,500ボルトで電化した。下関変電区と門司変電区にそれぞれ2,000キロワットの水銀整流器を2台ずつ設置し、中国配電および九州配電から受電した電力を変換して供給する構成とした。架線はシンプルカテナリ式であった。またトンネル内の照明と排水ポンプへの電源供給も行い、下関側の60ヘルツと門司側の50ヘルツの双方を切り替え可能な構成となっていた。 信号は、単線自動閉塞式で設置され、運転時隔3分を前提として信号機の平均距離を650メートルとし、トンネル内に上下それぞれ5基ずつの信号機を設置した。上り線開通後は複線となる区間であるが、その後も修理などを考慮して単線用の信号設備とした。信号機の電源は、平常時は門司方から50ヘルツ電源を受電しており、予備として下関方から60ヘルツ電源を受電して、自動的に切り替わる仕組みになっていた。軌道回路は8区分されており、最長781メートル、最短125メートルとされた。
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