ヒマラヤ山脈での登山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 06:10 UTC 版)
「ファニー・ブロック・ワークマン」の記事における「ヒマラヤ山脈での登山」の解説
我々は偉大な山の世界の空気を吸い、その氷河の旋回する水を飲み、その聳え立つ峰々のたとえようもない美しさと威厳を我々の目に焼き付かせ、さらに時が過ぎて、その魅力が彼らの力を新たに主張し、抑えがたく訴えかける歪をもってもう一度あの地域に戻って来るよう我々に呼びかけ、その雄大さは美しさと崇高さの感覚を十分に満足させてくれる。 — ウィリアムとファニー・ワークマン、『雪のあるヒスパーの呼びかけ』 ワークマン夫妻は、始めてヒマラヤに旅した後で、登山の世界に魅せられるようになった。その後の14年間で8度その地域に旅した。そこは当時まだほとんど探検されてはおらず、地図も無い世界だった。夫妻の旅行は現在あるような軽量の装備、フリーズドライの食料、日焼け止め、あるいはラジオも無いときだった。ある遠征では、探検し、測量し、写真を撮り、最終的に発見したことを報告し、地図も作った。夫妻は責任を共有し、代わる代わる務めた。ある年ではファニーが旅の物流を手配し、ウィリアムが科学的な計画で働き、次の年はその役割を入れ替えた。 ワークマン夫妻は、ヒマラヤを初めて旅して労働者の問題を経験した後、当時としては最善で最も経験を積んだ山岳クラブのガイドであるマチアス・ザーブリッゲンを雇った。かくして1899年、地元ポーター50人とザーブリッゲンと共にビアフォ氷河の探検を始めたが、危険なクレバスや悪天候のためにスコロ・ラ氷河とその周辺の未踏峰に行き先を変えることを強いられた。ファニーが息子の名前を付けた峰であるジークフリートホーン(標高18,600フィート、5,700 m)に達し、当時としては女性の最高点到達記録になった。続いて標高17,000フィート (5,200 m) でキャンプを張り、さらに高い19,450フィート (5,930 m) の峰に登ってブロック・ワークマン山と名付けた。ここで遥かかなたにある山の景観を称賛し、その雄大な景観についてコメントを残した。彼らは世界第2位の山であるK2を見ていた。ファニーはK2を見たことが記録された最初の女性になった。最後はコーザー・ガンジ(標高20,997フィート、6,400 m)に登り、ファニーは3度連続して最高点到達記録を更新した。その登山は大変挑戦的なものだったので、新たにポーターを雇う必要があり、新しいベースキャンプを設営し、標高18,000フィート (5,500 m) 付近で夜を過ごした。翌朝、標高差1,200フィート (370 m) の壁に挑み、風に吹き曝されることになった。その頂上に近づいたときに、ファニーの指が麻痺してきたので、ピッケルを掴んでいられなくなり、ポーターの1人は彼らを捨てた。ポーリーは、「アドレナリンと絶望感で頂上に駆り立てられ、そのときの4人組は持っていた計器が気温10°F (-12 ℃) になり、標高21,000フィート (6,400 m)を計測するまで長くしがみついているだけだった。」と記している。ファニーは「緩りと、執拗で、果敢な」登山家だった。「彼女はクマのように、しっかりと片足を据え、続いて別の足でしっかりとした足場を探った」と記されている。20世紀初めの登山なので、ハーケンやカラビナのような特殊道具を持っていなかったが、そのような高度まで昇ることができた。ポーリーは、「彼女な不屈な粘り強さと高山病には無縁だったこと」でそれができたと論じている。 ファニーは旅から戻ると直ぐに、「スコットランド地理学会誌」の記事で、その功績を報告した。この旅について『ヒマラヤ山脈の氷の世界で』を著し、科学的な情報や実験を含む作品とし、彼女が改良したバロメーター(気圧計)の優秀さを売り込んだが、学術的な評論家はそれに動かされず、彼女が科学的知識に欠けていることを指摘した。一方で人気ある書評家たちはその作品を楽しみ、「我々は、ワークマン博士と夫人が近年になく注目すべき旅行記を書いたと言うことに躊躇しない」と結論付けた。 1902年、ワークマン夫妻はヒマラヤに戻り、アランド(パキスタン)を出発点にチョゴ・ラングマ氷河を探検した最初の西洋人となった。80人のポーターを雇い、物資4トンを持って行ったが、その探検はほとんど絶え間のない雪と60時間の暴風に妨げられた。1903年、ガイドのサイプリーン・サボイエを雇ってホー・ルンバ氷河を歩いた。近くにあるピラミッド峰(後にスパンティク・ソスバン山脈の一部としてスパンティクと改名)と呼んだ山にも登ろうとした。最初の夜は標高16,200フィート (4,900 m) でキャンプし、次の夜は18,600フィート (5,700 m) で泊まった。ポーターが病気になったために3晩目は20,000フィート (6,100 m) ではなく19,355フィート (5,899 m) でキャンプすることを強いられ、最終的にそのポーターを後に残した。彼らは標高22,567フィート (6,878 m) の峰に登り、ファニーはまた新たな最高点到達記録を作った。ウィリアムと1人のポーターがこの遠征の目標であった針のような峰に向かった。しかし、彼らは高山病が始まる前に安全な高度まで昇ることはできないと分かり、頂上まで数百フィートの地点で登頂を断念した。 ワークマン夫妻はこの旅から戻った後、ヨーロッパ中を講演して回った。ファニーはその場に応じて英語、ドイツ語、フランス語で講演した。フランスのリヨンで講演したときは、公会堂に1,000人の聴衆が押し寄せ、700人が入れなかった。1905年、ファニーは王立地理学会で講演した2人目の女性となった(1897年5月のイザベラ・バードが最初の女性だった)。ファニーの講演の様子はロンドンの新聞「タイムズ」に掲載された。 1906年、ワークマン夫妻はカシミール地方に戻り、ヌン・クン山塊を探検した最初の西洋人となった。この旅ではアルプス地方から6人のイタリア人ポーターを雇い、他に地元の200人のポーターとサボイエがガイドとして戻ってきた。イッサーマンとウィーバーが彼らのヒマラヤ山岳史で説明しているように、ワークマン夫妻は地元のポーターを嫌っていたが、彼らを雇うしかなかった。「彼らのそうでなければ貴重な本は、彼らが心ならずも土地の支援に頼っていた、怠け者で、嘘つきで、泥棒で、反抗的ないかさま師に対する長く、怒りを帯びた長口舌のようなものになった」としている。夫妻は標高17,657フィート (5,382 m) から21,000フィート (6,400 m) まで4か所でキャンプを行う計画を立てた。労働者の問題はあったが、ワークマン夫妻は他の登山者よりも高い位置、すなわちヌン・クンのZ1の頂点、標高20,278フィート (6,181 m) で夜を過ごし、そこを「キャンプ・アメリカ」と呼んだ。ウィリアムはファニーについて次のように記した。 彼女はその視界にある目標に注意を集中し、それをなす過程にあるかもしれない困難さや危険性ですら無視することが多かった。成功するために覚悟をもって臨み、覚悟が無ければ失敗していたであろう成功を勝ち得る勇気があった。あらゆる機会を活かすという信念があった。諦めることを知らず、意思を挫くような困難さを前にして引き返すことを最初に言い出す者ではなかった。 この旅の間にワークマン夫妻が作った地図は質が悪かった。メイソンに拠れば、この夫妻は地形的な方向についてセンスが悪く、すなわち彼らが計測したものは不正確であり、インド測量局で利用できないものだった。
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