労働者の問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/13 05:41 UTC 版)
「三五公司マレー半島ゴム園群」の記事における「労働者の問題」の解説
ゴム栽培事業の労働力は、日本人経営の農園でも、主に中国やインドあるいはジャワからの労働移民によって供給された。マレー半島における錫の発掘とゴム園の開発に伴って、近隣諸国からおびただしい数の人々がマレー半島に流入した。なかでも中国大陸の広東、広西、福建の3省からの移民は群を抜いていた。イギリス政府統計によると1900年から1945年の間にその数は1万2000人に達している。今日のシンガポールでもマレーシアも多民族国家であるが、これらの国家はマレー半島における錫とゴム園の開発によって形作られたといえる。では日本人の労働者の移入は図られなかったのであろうか。この点については、既に日露戦争が終わって間もなくの1906年(明治39年)頃から、日本から「裸一貫で遺利を拾わんとする無謀な男子が続々、潮の如く」シンガポールに押し寄せていたという。三五公司も、ゴム園従業員を新聞で募集している。日本人は手先が器用だからゴム樹液の採取は日本人にやってもらおうという考えである。その結果は惨憺たるもので、森前掲書によると「新聞で読んでくるのは碌な奴がいなかった。本当の農夫は当時は新聞など読まなかった。とんでもないゴロツキが来て、500人ばかり募って何十万という損を会社に蒙らせて、マラリヤに苦しんだ結果ひとりも残らず帰った」という結果に終わった。
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