トリスタンの労働者連合運動への共感
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「エリザ・ルモニエ」の記事における「トリスタンの労働者連合運動への共感」の解説
実際、サン=シモン主義は「不道徳である」との訴えがあって布教が制限されたこともあり、シャルルはパリを離れ、再びソレーズでエリザと一緒に暮らし、コレージュ・ド・ソレーズで教鞭を執った。入信前にパリで始めた弁護士の勉強も再開し、資格を得るとボルドーに越した。ボルドーでは10年ほど切り詰めた生活を送った。エリザは家計を助けるために下着類を売る仕事を始めようとしたが、弁護士の妻の仕事ではないという偏見があって諦めざるを得なかった。1844年にフローラ・トリスタンが労働者の連帯・団結を呼びかける自著『労働者連合』を持ってルモニエ夫妻を訪問した。彼女は労働者連合運動のためにフランス各地を遍歴しながら講演会を行っていた。彼女もまたサン=シモン主義に傾倒し、女性解放運動にも取り組んでいたが、女性の問題と労働者の問題を同次元で捉えていたトリスタンは、フェミニストからは距離を置き、単独で活動した。こうしたトリスタンの思想にエリザは共感した。女性の経済的自立、そのための就労、そしてそのための女子教育を重視していたからである。だが、トリスタンはルモニエ家滞在中に病に倒れ、同年11月14日、41歳の若さで他界した。
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